楠木正行

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基本情報

楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。南朝左衛門尉・河内守・河内国守護・帯刀舎人。贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。 生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)から史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国(大阪府東部)を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという岡野友彦の新説がある。いずれにせよ、興国5年/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7年/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という説もある左大臣近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。 正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(「人智を超越した事象である」)と畏怖された。岡野によれば、親房が幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にも関わらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦だったのではないかという。また、藤田精一・生駒孝臣は、正行の戦闘経路が、元弘の乱(1331年 - 1333年)での父のそれをほぼ踏襲していることを指摘する。藤田によれば、初陣での紀伊国(和歌山県)攻略は父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略であるという。生駒は、正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたであろうと推測する。正行は同年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てに完勝した。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させた。 しかし、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。この戦いは、『太平記』では開戦前から討死を前提とした玉砕だったと物語られ、悲壮に描かれた。だが、『太平記』の玉砕説は複数の研究者から疑問視されており、特に生駒は、それまで不敗であることや、同族の武将の書簡などを見る限り、歴史上の正行はこの戦いでも勝利を確信して開戦したのではないかとしている。楠木兄弟の戦死と直後の吉野行宮陥落により、師直と直義との間の政治権力の均衡が崩れ、室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱(1350年 - 1352年)が発生することになった。 史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。一方、軍記物語『太平記』(1370年頃完成)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救ったという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また、明治時代には明治天皇から追悼の勅語を受け、従二位を追贈されて、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となった。

名前楠木正行
よみくすのき まさつら
性別男性
生年不詳
没年1348年

血縁情報

ランキング

登場作品
21位/21位
1回
配役数
24位/26位
3人
演者平均
310位/395位
23歳

出演情報

北代隼人

太平記(1991年)

北代隼人

出典:NHK

中村繁之

太平記(1991年)

中村繁之

出典:NHK

タイトル役者/年齢役名/出演回数
1991年北代隼人楠木正行
太平記-2回/全49回
1991年加藤盛大楠木正行
太平記-3回/全49回
1991年中村繁之楠木正行
太平記当時23歳1回/全49回

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