偉人

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東龍太郎

あずま りょうたろう(1893-1983)
登場回数:1作

東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の医学者・官僚。東京大学名誉教授。 東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)等を歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長等。 父・藤九郎は医師。弟の東武雄は、東大野球部の投手として活躍。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。
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藤原家保

ふじわら の いえやす(1080-1136)
登場回数:1作

藤原 家保(ふじわら の いえやす)は、平安時代後期の公卿。六条修理大夫藤原顕季の次男。
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藤原兼長

ふじわら の かねなが(1138-1158)
登場回数:1作

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。官位は正二位・権中納言、右近衛大将。
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藤原信頼

ふじわら の のぶより(1133-1160)
登場回数:2作

藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。
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藤原忠平

ふじわら の ただひら(880-949)
登場回数:1作

藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。
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藤原頼宗

ふじわら の よりむね(993-1065)
登場回数:1作

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。
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洞院公賢

とういん きんかた(1291-1360)
登場回数:1作

洞院 公賢(とういん きんかた)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正式な名乗りは藤原公賢。左大臣・洞院実泰の子。官位は従一位・太政大臣。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。有職故実の大家で、歴代天皇・将軍からたびたび諮問を受けた。また、公賢の日記『園太暦』は、中原師守『師守記』と並ぶ最重要史料であり、重要文化財に指定されている。文芸にも造詣が深く、歴史物語『増鏡』の作者の正体としては、二条良基に次ぐ有力候補である。養女で後醍醐天皇側室の洞院廉子(阿野廉子)を通じて、南朝の後村上天皇の系譜上の祖父になる。
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徳川家定

とくがわ いえさだ(1824-1858)
登場回数:7作
別名:政之助/徳川家祥

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代征夷大将軍(在任:1853年 - 1858年)。第12代征夷大将軍徳川家慶の四男。
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徳川綱誠

とくがわ つなのぶ(1652-1699)
登場回数:1作

徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ/つななり)は、江戸時代前期の大名。尾張藩3代藩主。新陰流第7世。号は誠公。字は子明。官位は正三位・権中納言。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉からは甥であり、又従兄弟でもある。
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徳川茂承

とくがわ もちつぐ(1844-1906)
登場回数:1作

徳川 茂承(とくがわ もちつぐ)は、幕末の大名。紀州藩14代(最後の)藩主。紀州藩8代藩主・徳川重倫の実弟で伊予西条藩6代藩主となった松平頼謙の曾孫。初名は松平 頼久(まつだいら よりひさ)。
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