偉人

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尾藤道休

びとう どうきゅう(?-1589)
登場回数:1作

尾藤 道休(びとう どうきゅう)は、安土桃山時代の武将。
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富川十郎

とみかわ じゅうろう(1844-1867)
登場回数:1作

富川 十郎(とみかわ じゅうろう、天保15年(1844年) - 慶応3年6月14日(1867年7月15日))は、新選組隊士。諱は政行、良利、政之。姓は藤原。 甲斐国、もしくは常陸国出身とされる。慶応元年(1865年)の江戸での隊士募集に応募して新選組に入隊。 慶応3年(1867年)3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、組に残留した(伊東から密命を受けていたともされる)。同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した。享年24。墓所は初め光縁寺、後に戒光寺。
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武田信光

たけだ のぶみつ(1162-1248)
登場回数:1作

武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐源氏の第5代当主。武田氏2代当主。甲斐源氏第4代当主、武田氏初代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。
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服部嵐雪

はっとり らんせつ(1654-1707)
登場回数:1作

服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。
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淵辺義博

ふちべ よしひろ(?-1335)
登場回数:1作

淵辺 義博(ふちべ よしひろ、ふちのべ よしひろ、生年不明 - 建武2年(1335年)は、南北朝時代の武将。相模国高座郡大野村渕辺原(現在の神奈川県相模原市中央区淵野辺周辺)の地頭で、足利直義の家臣。淵野辺城主。通称は伊賀守。淵辺氏は武蔵七党の横山氏一門の野辺氏(矢部氏)の支流といわれている。
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平賀朝雅

ひらが ともまさ(?-1205)
登場回数:2作

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。母は頼朝の乳母である比企尼の三女。頼朝の猶子となっている。
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平時実

たいら の ときざね(1151-1213)
登場回数:2作

平 時実(たいら の ときざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の長男。官位は従三位・左中将。讃岐を号す。
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平正盛

たいら の まさもり(?-1121)
登場回数:1作

平 正盛(たいらの まさもり、生年不詳 - 保安2年〈1121年〉?)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。
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平通盛

たいら の みちもり(1153-1184)
登場回数:1作

平 通盛(たいら の みちもり)は、平安時代末期の平家の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻の1人は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。
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平良正

たいら の よしまさ(?-?)
登場回数:1作

平 良正(たいら の よしまさ)は、平安時代中期の武将。平高望あるいは平良持の子。
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