偉人

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片桐貞隆

かたぎり さだたか(1560-1627)
登場回数:1作
別名:駒千代

片桐 貞隆(かたぎり さだたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和国小泉藩の初代藩主。 片桐直貞の次男で、片桐且元の弟である。21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐、文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共にその子豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に就いて大津城の戦いに加わったが、所領は安堵された。慶長19年(1614年)6月、大野治長と共に徳川家康の口添えで5千石を秀頼より加増され、その礼として治長と駿府にいる大御所家康、次いで江戸の将軍徳川秀忠を訪ねる。しかし、大坂に戻ってくるなり方広寺鐘銘問題が噴出し、これを契機に家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣家の下を去って家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。 兄より遥かに激しい気性の持ち主であったと言われている。
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蜂屋可広

はちや よしひろ(1614-1671)
登場回数:1作

蜂屋 可広(はちや よしひろ)は、江戸時代初期の武士。陸奥国仙台藩士。伊達騒動(寛文事件)で著名。
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豊臣仙千代丸

とよとみ の せんちよまる(1590-1595)
登場回数:1作

豊臣 仙千代丸(とよとみ の せんちよまる/とよとみ せんちよまる)は、安土桃山時代の公達。豊臣氏の2代関白豊臣秀次の長男。母は尾張衆(または美濃衆)日比野下野守の娘・於和子(おわこ)で、彼女は秀次の側室であって庶長子であろう。
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北条義宗

ほうじょう よしむね(1253-1277)
登場回数:1作

北条 義宗(ほうじょう よしむね)は、鎌倉時代中期の北条氏一門。赤橋 義宗(あかはし よしむね)とも称される。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の嫡男。赤橋流北条氏第2代当主。
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北条時宗

ほうじょう ときむね(1251-1284)
登場回数:1作

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。官位は、正五位下相模守。贈従一位。
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北条泰家

ほうじょう やすいえ(?-1335)
登場回数:1作

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。
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北畠顕家

きたばたけ あきいえ(1318-1338)
登場回数:1作

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍、贈従一位右大臣。 後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議に任じられて公卿に登り、建武の新政では、鎮守府大将軍として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、石津の戦いで奮戦の末に幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳(満20歳)。 後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。
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堀真五郎

ほり しんごろう(1838-1913)
登場回数:1作

堀 真五郎(ほり しんごろう、1838年5月4日(天保9年4月11日) - 1913年(大正2年)10月25日)は、幕末の志士。長州藩士。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。
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堀部ほり

ほりべ ほり(1675-1720)
登場回数:4作
別名:ほり

堀部 きち(ほりべ きち、延宝3年(1675年) ‐ 享保5年5月25日(1720年6月30日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の1人堀部武庸(堀部安兵衛)の妻。名をほり、幸(こう)、順(じゅん)と記す書もあるが、これは誤りである。
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本多正永

ほんだ まさなが(1645-1711)
登場回数:1作

本多 正永(ほんだ まさなが)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。下総舟戸藩主、上野沼田藩の初代藩主。正重系本多家4代。
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