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万里小路宣房

までのこうじ のぶふさ(1258-1348)
登場回数:1作

万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年(1324年))において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。
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名護良豊

なご りょうほう(1551-1617)
登場回数:1作

名護 良豊(なご りょうほう、1551年 (嘉靖30年) - 1617年(万暦45年))は琉球王国の政治家。三司官。馬氏小禄殿内三世で童名は太良金、号を汝舟といい、与湾大親の孫:浦添良憲 (大浦添親方) の孫。唐名は馬 良弼(ば りょうひつ)。正式な呼称は名護親方良豊。
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毛利安子

もうり やすこ(1843-1925)
登場回数:1作

毛利 安子(もうり やすこ、天保14年3月8日(1843年4月7日) - 1925年(大正14年)7月24日)は、幕末期から大正時代の女性。最後の長州藩主・公爵毛利元徳の正室。公爵毛利元昭ら5男1女の生母。
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毛利小平太

もうり こへいた(?-?)
登場回数:4作

毛利 小平太(もうり こへいた、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野家の家臣。諱は元義(もとよし)とされる。 元禄13年(1700年)の「浅野家分限帳」によれば大納戸役20石5人扶持とある。大石良雄の吉良義央への仇討ちの盟約に加わり、吉良邸討ち入り前には木原武右衛門と変名して本所林町五丁目の堀部武庸の借家に入っていた。 討ち入り1か月前の元禄15年(1702年)11月14日に作成された討ち入り手配(寺井玄渓宛てに送られたもの)には、裏門隊屋敷内突入部隊の中に毛利小平太元義の名がある。大石が11月29日付けで落合勝信に提出した瑤泉院への書状には、毛利小平太・瀬尾孫左衛門・矢野伊助の後に脱盟する3名を加えて忠死する者50名と書いている。 しかしその後、小平太は脱盟する旨の書状(12月11日付けとなっている)を残して逐電した。討ち入り口上書のなかには毛利小平太の名があるものが残っている。一方、12月12日に逃亡した矢野伊助や瀬尾孫左衛門の名は書かれていないことから、大石良雄らが小平太脱盟を知ったのは討ち入り直前だったと見られている。そのため小平太を「最後の脱盟者」と呼ぶことが多い。小平太の脱盟を受けて急遽、三村包常が表門隊から裏門隊へ編成替えされている。 逐電の理由として、大垣新田藩主戸田氏成に仕えていた小平太の兄に説得されて脱盟したという説が残っている。 また、赤穂事件を題材にしたフィクション作品では、脱盟の内訳を多様に描いており、親族によって討ち入り参加を止められる(日本テレビ『忠臣蔵』、大河ドラマ『元禄繚乱』)、同棲していた女からの懇願で討ち入り参加を諦める(TBS『女たちの忠臣蔵』)、討ち入りに向かう途中に死亡(戦死・病死など)する(テレビ東京『大忠臣蔵』、テレビ朝日『忠臣蔵 CHUSHINGURA』、諸田玲子『四十八人目の忠臣』)などがある。
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木村芥舟

きむら かいしゅう(1830-1901)
登場回数:2作

木村 芥舟(きむら かいしゅう、文政13年2月5日(1830年2月27日) - 明治34年(1901年)12月9日)は、江戸幕府末期(幕末)の旗本(幕臣)。位階は正五位。諱は喜毅(よしたけ)。 幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行等幕府の要職を歴任。咸臨丸の総督を務め、明治維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人である。 死没の日付で正五位に叙されているが、幕末の幕閣で明治以後に位階勲等を受けた者は木村を含めて、川路聖謨(贈従四位)、岩瀬忠震(贈正五位)、池田長発(贈正五位)の4名だけである。「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある(ただし木村は、死後の日付での「贈位」ではなく、死去の日付での「叙位」である)。
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野村祐勝

のむら すけかつ(1560-1597)
登場回数:1作
別名:野村太郎兵衛

野村 祐勝(のむら すけかつ)は、安土桃山時代の武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎の一人。母里友信(多兵衛)の異母弟。 永禄12年(1569年)、青山・土器山の戦いで長兄・曽我太郎兵衛が討死し、次兄・友信は母里家を継ぐことになったため、曽我家の跡継ぎとなる。天正元年(1573年)の印南野合戦で初陣。天正3年(1575年)、妻の実家の野村家が滅亡したため、野村姓を継ぐこととなる。 天正12年(1584年)の雑賀衆・根来衆による岸和田での反乱では、黒田長政らと共に奮戦し、首級を挙げる。天正14年(1586年)の宇留津城攻め、天正15年(1587年)の財部城攻めでも戦功を挙げた。天正16年(1588年)の城井鎮房の暗殺の際には、長政の合図に応えて鎮房の前に歩み出た後、鎮房に三宝を投げつけた後一の太刀を浴びせた。その後、2960石を拝領する。後、加増され子孫は代々福岡藩の重臣、中老職を世襲した。なお後裔の野村祐春の次男は黒田長貞で、秋月藩の養子となり当主となった。 文禄の役にも従軍し、戦功を挙げた。帰国後に発病し、慶長2年(1597年)2月14日に豊前国中津で死去。享年38。
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柳原前光

やなぎわら さきみつ(1850-1894)
登場回数:2作

柳原 前光(やなぎわら さきみつ)は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家第22代当主。大正天皇の伯父。
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有加一乃末陪

ありか いちのまえ(?-?)
登場回数:1作

有加 一乃末陪(ありか いちのまえ、生没年不詳)は、平安時代、東北地方の女性。安倍頼時の長女。母は清原武則の妹か。藤原経清の妻で藤原清衡の母。
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祐天仙之助

ゆうてん せんのすけ(1820-1863)
登場回数:1作

祐天 仙之助(ゆうてん せんのすけ、文政元年(1818年)頃 - 文久3年10月15日(1863年11月25日))は、江戸時代末期(幕末)の博徒、目明し。本名、山本仙之助。甲州博徒の一人。
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立花種恭

たちばな たねゆき(1836-1905)
登場回数:2作

立花 種恭(たちばな たねゆき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国下手渡藩の第3代藩主。のち筑後国三池藩主となり廃藩を迎えた。通称は鐘之助(しょうのすけ)、官位は出雲守。廉斎(れんさい)と号した。明治時代に子爵を授爵する。貴族院議員。
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