偉人

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有吉熊次郎

ありよし くまじろう(1842-1864)
登場回数:1作

有吉 熊次郎(ありよし くまじろう)は、幕末の長州藩士、尊皇攘夷派の志士。熊次郎は通称で、諱は良明、もしくは良朋。本姓は藤原を称し、墓碑の刻字には藤原良明とある。作家有吉佐和子の曾祖父にあたる。
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与謝野秀

よさの しげる(1904-1971)
登場回数:1作

与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971年1月25日)は、日本の外交官。
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立花宗茂

たちばな むねしげ(1567-1643)
登場回数:1作

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。
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林通具

はやし みちとも(1516-1556)
登場回数:2作

林 通具(はやし みちとも、永正13年(1516年) - 弘治2年8月24日(1556年9月27日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。林通安の子。兄に林秀貞。『信長公記』には通称の美作守のみで、実名の記載はない。蓬左文庫蔵の「林八郎左衛門系図」では、先祖の美作守の名を「通具」としている。
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鈴木重朝

すずき しげとも(1561-1623)
登場回数:1作

鈴木 重朝(すずき しげとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。雑賀党鈴木氏の当主。
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和田義盛

わだ よしもり(1147-1213)
登場回数:4作

和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。
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昊天宗建

こうてん そうけん(?-1644)
登場回数:1作

昊天 宗建(こうてん そうけん、生年不詳 - 正保元年(1644年))は、戦国時代、江戸時代の僧侶。 臨済宗龍潭寺五世住職。彦根の龍潭寺の創立者。
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趙良弼

ちょう りょうひつ(1217-1286)
登場回数:1作

趙 良弼(ちょう りょうひつ、1217年 - 1286年)は、元の女真人官僚・政治家。字は輔之。
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大橋訥庵

おおはし とつあん(1816-1862)
登場回数:1作

大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年〈1816年〉 - 文久2年7月12日〈1862年8月7日〉)は、江戸時代後期の儒学者、尊王論者。諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号で「とっつあん(父っつあん)」の言葉に洒落て漢字を宛てたもの。坂下門外の変を計画した人物であり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。
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高杉雅子

たかすぎ まさこ(1845-1922)
登場回数:2作

高杉 雅子(たかすぎ まさこ、弘化2年(1845年) - 大正11年(1922年)11月)は、幕末から大正時代にかけての日本の女性。長州藩士・井上平右衛門の次女。高杉晋作の妻。子に東一(梅之進)。名前は雅、政子とも。萩城下一の美人と呼ばれた。
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