偉人

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伊藤軍兵衛

いとう ぐんべえ(1840-1862)
登場回数:1作

伊藤 軍兵衛(いとう ぐんべえ、天保11年(1840年)11月 - 文久2年6月1日(1862年6月27日))は、第二次東禅寺事件を引き起こした攘夷派の志士。信濃国松本藩士。諱は祐英(すけひで)。 松本藩士・伊藤祐宣の子として生まれ、文久元年(1861年)5月、藩主松平光則の参勤交代警護として出仕する。文久2年(1862年)5月28日、イギリス公使館が置かれた東禅寺の警衛役が自藩に割り当てられると、伊藤は父の喪により帰省中であったが、急遽上京して、警護隊に編入された。伊藤は兼ねてから、東禅寺の警衛役により自藩が多くの出費を強いられていること、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し、自藩の東禅寺警衛の任を解くのが上策と考えるに至った。 5月29日午前2時頃、伊藤は一刀を帯し、槍を提げて江戸城近傍の呉服橋の藩邸を抜け出し、東禅寺に忍び込み、イギリス人水兵2名を殺害。早朝藩邸に戻り、遺書を残して翌5月30日に自害した。享年23。 伊藤の遺体は幕府の外国掛によって東禅寺に移され、外国人の一閲に供された後、北町奉行石谷穆清の元に差し出され、小塚原刑場に遺棄されたが、儒者大橋訥庵によって南千住回向院常行庵に埋葬された。 娘・鑚の婿に和算家で大蔵省会計検査院部長を務めた伊藤祐敬。祐敬は松本藩算学師範・中島這季の子で、兄に中島這棄、市川正寧(大蔵省一等主税官)、妹は男爵安東貞美の妻。娘夫婦の長男・伊藤常夫は東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後鉄道省に入省し、退官後富土山麓鉄道の專務取締役。常夫の妻は杉山四五郎の養妹。常夫の妹たちは、天文学者の平山信、男爵木越安綱の長男・専八(軍人)、子爵加納久朗、長崎省吾の長男・守一(軍人)の妻となった。
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井伊直孝

いい なおたか(1590-1659)
登場回数:3作

井伊 直孝(いい なおたか)は、江戸時代前期の武将・譜代大名。上野国白井藩主、近江国彦根藩2代藩主。
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井上佐市郎

いのうえ さいちろう(1834-1862)
登場回数:1作
別名:井上佐一郎

井上 佐市郎(いのうえ さいちろう、天保5年(1834年) - 文久2年8月2日(1862年8月26日))は、幕末の土佐藩士。桐雨と号した。名は佐一郎とも。
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一志太夫

いちしたゆう(?-?)
登場回数:1作

一志太夫(いちしたゆう)は、越後国・出羽国にあった皇大神宮(社)の神官の名跡。
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稲田示植

いなだ しげたね(1577-1650)
登場回数:1作

稲田 示植(いなだ しげたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。蜂須賀氏の家臣。徳島藩筆頭家老。淡路国洲本城代・稲田氏2代当主。
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右衛門佐局

えもんのすけのつぼね(1650-1706)
登場回数:3作

右衛門佐局(えもんのすけのつぼね、うえもんのすけのつぼね、うもんのすけのつぼね) 慶安3年(1650年)- 宝永3年2月11日(1706年3月25日)は、江戸時代前期から中期の大奥女中。単に右衛門佐とも。権中納言・水無瀬氏信の娘。兄弟に町尻兼量・水無瀬兼豊がいる。
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鵜殿長照

うどの ながてる(?-1562)
登場回数:2作

鵜殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。三河国宝飯郡上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主。
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永山弥一郎

ながやま やいちろう(1838-1877)
登場回数:1作

永山 弥一郎(ながやま やいちろう、天保9年(1838年) - 明治10年(1877年)4月13日)は日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。
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猿飛佐助

さるとび さすけ(?-?)
登場回数:1作

猿飛 佐助(さるとび さすけ)は、講談などに登場する忍術使い。立川文庫では、真田幸村(信繁)に仕える真田十勇士の第一・筆頭。モデルとなった人物が実在したとの指摘がある。
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奥山朝利

おくやま ともとし(?-1561)
登場回数:1作

奥山 朝利(おくやま ともとし)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の人。井伊家分家の実力者。名は親秀とも。
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