偉人

偉人

長沢資親

ながさわ すけちか(1681-1750)
登場回数:1作

長澤 資親(ながさわ すけちか)は、江戸時代中期の高家旗本。藤原北家日野家庶流・外山光顕の次男。官位は従四位上・左少将、壱岐守。家紋は鶴丸、子日松丸、五三桐。
偉人

長齢院

ちょうれいいん(?-1573)
登場回数:1作

長齢院(ちょうれいいん、? - 天正元年11月24日(1573年12月18日))は、戦国時代の女性。前田利昌(利春)の正室。
偉人

津崎矩子

つざき のりこ(1786-1873)
登場回数:1作

津崎 矩子(つざき のりこ、天明6年(1786年) - 明治6年(1873年)8月23日)は、幕末の近衛家の老女、勤王家。
スポンサーリンク
偉人

定恵院

じょうけいいん(1519-1550)
登場回数:3作

定恵院(じょうけいいん、永正16年(1519年)- 天文19年6月2日(1550年7月15日))は、戦国時代の女性。甲斐国の戦国大名武田信虎の長女。今川義元の正室。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。
偉人

殿内義雄

とのうち よしお(1830-1863)
登場回数:1作

殿内 義雄(とのうち よしお、天保元年(1830年) - 文久3年3月25日(1863年5月12日)は、江戸時代(幕末)の人物。浪士組の一人。
偉人

田中貞四郎

たなか さだしろう(?-?)
登場回数:3作

田中 貞四郎(たなか さだしろう、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。 赤穂藩主・浅野長矩の近習として片岡高房や礒貝正久に次いで寵愛を受けていた。元禄13年(1700年)の『赤穂分限帳』には150石手廻者頭とある。元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際にも長矩にお供して江戸にいた。長矩の切腹後、片岡・磯貝らとともにその遺体を引き取り、泉岳寺に埋葬し、その墓前で髻を切って吉良の首級をあげることを誓ったメンバーの一人である。 その後も片岡らと行動をともにし、3月20日には同志を募るために江戸をたち、30日に赤穂に入った。しかし、赤穂城中では殉死切腹が主流になっており、吉良へのかたき討ちを唱える3人とは意見がかみ合わなかった。結局、3人は大石良雄の盟約には加わらずに江戸へ戻っていった。堀部武庸ら江戸急進派と合流しようとしたが、こちらとも上手くいかず3人は孤立した。その後、元禄15年(1702年)3月に大石良雄に派遣された吉田兼亮が江戸下向した際にようやく大石の傘下に合流し、江戸急進派とも和解する。 しかし、片岡と磯貝は主君浅野長矩から受けた寵愛を忘れることなく仇討ちを志し続けたが、田中は酒に溺れ、梅毒でその形相もすっかり変わるほど堕落した。ついには自分の命も惜しくなり、討ち入りの1ヶ月ほど前の11月7日付けの書状で脱盟する旨を大石に伝えて一党を去った。その後の消息は不明である。
偉人

渡辺糺

わたなべ ただす(?-1615)
登場回数:3作

渡辺 糺(わたなべ ただす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。槍術家。豊臣氏の家臣。通称を内蔵助(くらのすけ)とし、渡辺内蔵助の名の方が知られる。内蔵助流槍術の祖であり、船津流槍術の祖である船津八郎兵衛の師匠。
偉人

土御門泰重

つちみかど やすしげ(1586-1661)
登場回数:1作

土御門 泰重(つちみかど やすしげ)は、江戸時代前期の公卿・陰陽家。陰陽頭・土御門久脩の子。官位は従二位。土御門家32代当主。
偉人

島津暐子

しまづ てるこ(1851-1869)
登場回数:1作
別名:島津てる子

島津 暐子(しまづ てるこ、嘉永4年正月16日(1851年2月16日) - 明治2年5月24日(1869年5月5日))は、薩摩藩最後の藩主島津忠義の正室。別名・暐姫(てるひめ)。忠義の伯父で先代藩主である島津斉彬の三女。母は側室の須磨。妹(同母妹)に典子(嘉永5年5月27日(1852年7月14日) - 明治36年(1903年))と寧子(嘉永6年10月30日(1853年11月30日) - 明治12年(1879年)5月24日)がいる。
偉人

島津斉興

しまづ なりおき(1791-1859)
登場回数:3作

島津 斉興(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名。島津氏27代当主。薩摩藩10代藩主。
スポンサーリンク