偉人

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水野忠勝

みずの ただかつ(?-1568)
登場回数:1作

水野 忠勝(みずの ただかつ)は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の豪族・水野氏の一族。水野信元・忠重・於大の方は異母兄弟にあたる。 東海道一帯に勢力を持つ戦国大名今川氏に属し、今川義元・氏真の2代に従った。永禄10年(1567年)今川氏と敵対する武田信玄に内通して密書を送ったことが露見したため、自害した。 子の康忠は徳川家康に仕えて樽氏と改姓し、子孫は樽屋と号して代々江戸の町年寄を務めた。また通常水野成清の子とされる水野長勝を、康忠の弟とする系譜もあるという。
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杉常道

すぎ つねみち(1804-1865)
登場回数:2作

杉 常道(すぎ つねみち)は、江戸時代後期(幕末)の長州藩士。杉民治、吉田松陰、楫取美和子らの父。
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成瀬正幸

なるせ まさゆき(1680-1743)
登場回数:1作

成瀬 正幸(なるせ まさゆき、延宝8年6月21日(1680年7月16日) - 寛保3年8月10日(1743年9月27日))は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第4代当主。 第3代当主・成瀬正親の長男。正室は堀直利の娘。子に成瀬正泰(長男)、娘(松平尚泰室、のち広橋勝胤室)がいる。官位は従五位下、隼人正。 幼名は小吉。元禄16年(1703年)9月20日に父が死去したため、その跡を継ぎ、同年12月に従五位下・隼人正に叙任した。 享保17年(1732年)8月15日、長男の正泰に家督を譲って隠居し、寛保3年(1743年)8月10日に64歳で死去した。法号は随峯院殿實相轉幽居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄三丁目の白林寺。
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清胤

せいいん(1522-1600)
登場回数:1作

清胤(せいいん、大永2年(1522年)- 慶長5年10月10日(1600年11月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての真言宗の僧侶。舜学坊と号した。
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清水一学

しみず いちがく(1678-1703)
登場回数:4作
別名:清水一角

清水 一学(しみず いちがく)は、元禄時代の武士。忠臣蔵(史実では元禄赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に討ち死にしている。江戸時代の歌舞伎では実際の赤穂事件関係者の名称を使うことが禁じられていたため、「清水一角」 、「清水大学」などと表現されている。 忠臣蔵の芝居や講談などでは剣の達人として伝わるが、実際は吉良家の中小姓(用人)である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ。 なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」とあり、近習なのか用人なのか不明。 また今日の忠臣蔵のドラマでは清水一学を二刀流の剣士として描くことがあるが、彼を描いた明治期の歌舞伎では二刀流として扱っていない 。
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西郷菊次郎

さいごう きくじろう(1861-1928)
登場回数:2作

西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日(万延2年1月2日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の政治家、外交官。
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西周

にし あまね(1829-1897)
登場回数:1作

西 周(にし あまね、(文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は、日本の啓蒙思想家、西洋哲学者。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。西 周助とも。
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静賢

じょうけん(1124-?)
登場回数:4作

静賢(じょうけん、天治元年(1124年) - 没年未詳)は、平安時代末期の僧。天台宗山門派。静賢法印。初名は静憲。父は信西(藤原通憲)、母は高階重仲の娘。後白河法皇の近臣。
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石田三成

いしだ みつなり(1560-1600)
登場回数:17作
別名:佐吉

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
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赤松則良

あかまつ のりよし(1841-1920)
登場回数:2作

赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日(1841年12月13日) - 大正9年(1920年)9月23日)は、日本の武士(幕臣)、軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将、従二位勲一等男爵。通称は大三郎。日本造船の父と呼ばれる。
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