偉人

偉人

伊達輝宗

だて てるむね(1544-1585)
登場回数:1作

伊達 輝宗(だて てるむね)は、戦国時代の武将・戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏16代当主。
偉人

伊達村豊

だて むらとよ(1682-1737)
登場回数:4作
別名:伊達左京亮

伊達 村豊(だて むらとよ)は、江戸時代前期から中期にかけての外様大名。伊予国伊予吉田藩3代藩主。
偉人

伊藤源助

いとう げんすけ(1842-1870)
登場回数:1作

伊藤 源助(いとう げんすけ、天保13年(1842年)? - 明治2年12月29日(1870年1月30日))は、江戸時代末期(幕末)の人物。本名は加藤愛之助。 元は白河藩の浪士。新選組の隊士といわれるが詳細は定かではない。明治2年(1870年)、大村益次郎の殺害に加わったとして処刑された。 なお、広瀬時宏と同一人物とする説がある。また、西村兼文『壬生浪士始末記』によれば、伊藤は新選組入隊は認められず退去したとされている。
スポンサーリンク
偉人

井伊直親

いい なおちか(1536-1563)
登場回数:1作

井伊 直親(いい なおちか)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏19代当主。
偉人

井上春忠

いのうえ はるただ(?-?)
登場回数:1作

井上 春忠(いのうえ はるただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏、小早川氏の家臣。父は諸説あるが、「閥閲録巻52・井上源三郎家譜」に拠ると井上資明。養父は井上俊秀。安芸井上氏は信濃源氏の流れを汲むとされる信濃井上氏の同族。
偉人

一条兼良

いちじょう かねよし(1402-1481)
登場回数:1作

一条 兼良(いちじょう かねよし/かねら)は、室町時代前期から後期にかけての公卿・古典学者。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮。一条家8代当主。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。
偉人

稲田植元

いなだ たねもと(1545-1628)
登場回数:2作

稲田 植元(いなだ たねもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。蜂須賀氏の家臣。洲本城代稲田家の祖とされる。
偉人

宇賀喜久馬

うが きくま(1843-1861)
登場回数:1作

宇賀 喜久馬(うが きくま、天保14年(1843年) - 文久元年3月3日(1861年4月12日))は、幕末の土佐藩士。名は祐利。 土佐郡小高坂村の郷士・宇賀市郎兵衛の三男として生まれる。 兄に知己之助(寺田利正)がおり、甥(利正の実子)は物理学者・文学者として著名な寺田寅彦である。 文久元年(1861年)同輩であった中平忠次郎と土佐永福寺門前を通過した際に、中平が土佐藩上士である山田広衛に無礼討ちにされる事件が発生する。その急報を中平の実兄である池田虎之進に伝えたために、駆け付けた池田が山田と同じく上士の益永繁斎を殺害し、下士間と上士間での対立が激化する事態にまで発展する。この井口村刃傷事件は山田を惨殺した池田と、その場に居合わせた喜久馬が切腹する事によってその日の内に収拾がつけられた。 切腹の際の介錯は兄の知己之助(寺田利正)が務めたとされる。墓所は高知県高知市福井にある。 事件時に19歳だった彼は、大変な美青年であったと伝わっている。
偉人

鵜殿鳩翁

うどの きゅうおう(1808-1869)
登場回数:1作

鵜殿 鳩翁(うどの きゅうおう、1808年(文化5年) - 1869年7月14日(明治2年6月6日))は、江戸時代後期、幕末期の幕臣である。甚左衛門。諱は長鋭。号は鳩翁。官位は民部少輔。父は熊倉茂寛で次男。 鵜殿甚左衛門長快の養子となり、1819年(文政2年)に家督を相続する。小納戸役などを経て、1848年(嘉永元年)、目付として幕府に仕えた。1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が来航すると攘夷を主張したが、翌年のペリー再来航時には日米和親条約締結の際の応対係を命じられている。安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持したが、南紀派の井伊直弼が大老に就任して安政の大獄を開始すると左遷された。これは、彼が攘夷を主張していたためと言われている。1860年(万延元年)、名を鳩翁と号した。 1863年(文久3年)2月5日、将軍徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組の取締役に就任するが、浪士組が清河八郎の策略や、それに伴う近藤勇らとの対立により本来の役目を果たせないまま壬生浪士組(後の新選組)・新徴組に分裂する事になると辞職した。明治には静岡(静岡県)に住み、1869年(明治2年)、62歳で没した。 墓所は静岡市葵区の本要寺。
偉人

永倉新八

ながくら しんぱち(1839-1915)
登場回数:3作

永倉 新八(ながくら しんぱち)は、幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。 松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛(すぎむら よしえ)と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。
スポンサーリンク