偉人

偉人

近衛基平

このえ もとひら(1246-1268)
登場回数:1作

近衛 基平(このえ もとひら)は、鎌倉時代中期の公卿。摂政・近衛兼経の長男。官位は従一位・関白、左大臣。近衛家5代当主。通称は深心院関白(しんしんいん かんぱく)。号に深心院、西谷がある。日記に「深心院関白記」がある。
偉人

近藤周助

こんどう しゅうすけ(1792-1867)
登場回数:1作

近藤 周助(こんどう しゅうすけ、寛政4年(1792年) - 慶応3年10月28日(1867年11月23日))は、江戸時代末期(幕末)の剣豪。天然理心流剣術3代目宗家。新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。諱は邦武。妻は近藤ふで。
偉人

金津義旧

かなづ よしもと(?-?)
登場回数:1作

金津 義旧(かなづ よしもと)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。通称の新兵衛の方が有名で、金津 新兵衛(かなづ しんべえ)として知られる。妻は長尾虎千代(後の長尾景虎・上杉謙信)の乳母である。現在流布している新兵衛の素朴でありながらも謙信に対する忠誠心の厚い人物像は海音寺潮五郎の小説『天と地と』とこれを原作とした『天と地と (NHK大河ドラマ)』(謙信役:石坂浩二、新兵衛役:高松英郎)および小松重雄の小説『聖将 上杉謙信』などによって広められた。
スポンサーリンク
偉人

駒井朝温

こまい ともあつ(1823-1896)
登場回数:1作

駒井朝温(こまい ともあつ、文政6年(1823年) - 明治29年(1896年))は、幕末の旗本(領地は上野国連取等)。父は駒井兜十郎。官位は、従五位下山城守、甲斐守。玉虹と号する。 西丸目付、本丸目付等を務めた。万延元年(1860年)3月4日、老中松平乗全、若年寄遠藤胤統、寺社奉行本庄宗秀、大目付久貝正典、江戸町奉行池田頼方、勘定奉行山口直信とともに桜田門外の変において吟味掛となった。同年12月大目付となる。文久2年(1862年)8月24日小姓組番頭となった。同年11月、井伊直弼のもと安政の大獄に関わったとして職を免じられた。元治元年(1864年)6月29日に歩兵頭となり、同年7月21日大目付に復し同年8月11日勘定奉行となり、12月19日再び大目付となり、その後講武所奉行並となる。慶応元年5月11日歩兵奉行となり6月19日迄務めた。慶応元年11月2日再び勘定奉行となり、慶応2年(1866年)7月3日大目付となり、慶応3年1月19日より陸軍奉行並となり1月28日迄務めた。慶応4年(1868年)3月、江戸幕府終焉とともに公職を去った。明治29年に73歳で死去した。 駒井朝温の次男小栗忠道は小栗忠順の養子で、小栗忠順が斬首された翌日に上野国高崎で斬首された。三男の小栗忠祥は忠順の遺児国子が成人し結婚する迄小栗家を継いでいる。
偉人

栗山利安

くりやま としやす(1550-1631)
登場回数:2作
別名:栗山善助

栗山 利安(くりやま としやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。 黒田氏の筆頭家老で、黒田二十四騎、黒田八虎の1人である。黒田孝高の股肱の家臣として厚い信任を受ける。家臣の中では序列第1位であって一老と称された。子に黒田騒動を起こした事で有名な利章がいる。通称は善助(ぜんすけ)。
偉人

結城尚豊

ゆうき ひさとよ(?-?)
登場回数:1作

結城 尚豊(ゆうき ひさとよ)は、室町時代の武将。室町幕府作事奉行結城氏の一族と推定されるが不詳。
偉人

原虎胤

はら とらたね(1497-1564)
登場回数:2作

原 虎胤(はら とらたね)は、戦国時代の武将。はじめ千葉氏当主千葉勝胤の家臣、後に甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。「虎胤」は諱で、ほかに信知とする記録もある。美濃守、後に剃髪して清岩と号す。武田の五名臣および武田二十四将の一人。
偉人

源為宗

みなもと の ためむね(?-1156)
登場回数:2作

源 為宗(みなもと の ためむね)は、平安時代後期の武将。河内源氏、源為義の六男。源頼賢、源頼仲は同母兄。通称は丹波冠者、また丹波六郎、賀茂六郎とも。
偉人

源光保

みなもと の みつやす(?-1160)
登場回数:1作

源 光保(みなもと の みつやす)は、平安時代末期の武将・院近臣。摂津源氏の流れを汲む出羽守源光国の三男。諱は光泰(『平治物語』)、光康(『愚管抄』)とも記される。
偉人

源頼兼

みなもと の よりかね(?-?)
登場回数:1作

源 頼兼(みなもと の よりかね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。源頼政の次男。父に続き大内守護を務める。
スポンサーリンク