偉人

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藤原成親

ふじわら の なりちか(1138-1177)
登場回数:5作

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。
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藤原長方

ふじわら の ながかた(1139-1191)
登場回数:1作

藤原 長方(ふじわら の ながかた)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家勧修寺流葉室家、権中納言・藤原顕長の子。官位は従二位・権中納言。藤原俊成の甥で藤原定家の従兄に当たる。
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藤原良房

ふじわら の よしふさ(804-872)
登場回数:1作

藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。 皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。
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道興

どうこう(1430-1527)
登場回数:1作

道興(どうこう、永享2年(1430年) - 大永7年7月7日(1527年8月3日))は、室町時代の僧侶で聖護院門跡。 関白近衛房嗣の子。兄弟に近衛教基、近衛政家。寛正6年(1465年)に准三宮宣下を受ける。
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徳川吉宗

とくがわ よしむね(1684-1751)
登場回数:1作

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代征夷大将軍(在職:1716年 - 1745年)。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。享保の改革を行った。徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男。徳川家康の曾孫。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の男系子孫である徳川将軍家の血脈が途絶えると、6代将軍家宣の御台所・天英院の指名により江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施した。財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍・八木将軍)と呼ばれ、また、幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖とも呼ばれている。
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徳川宗春

とくがわ むねはる(1696-1764)
登場回数:1作

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主、尾張藩第7代藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。 尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍・徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。 歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した。改名前の諱は兄・徳川吉通の「通」の字を得て通春。
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徳川頼宣

とくがわ よりのぶ(1602-1671)
登場回数:5作
別名:徳川頼将

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、紀伊和歌山藩の初代藩主。紀州徳川家の祖。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める。なお、頼将(よりまさ)と読む文献もある。
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内村鑑三

うちむら かんぞう(1861-1930)
登場回数:1作

内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。
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鍋島直之

なべしま なおゆき(1643-1725)
登場回数:1作

鍋島 直之(なべしま なおゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての外様大名。肥前国蓮池藩2代藩主。官位は従五位下・摂津守。5万2600石を領した(ただし蓮池藩は独立した藩ではなく佐賀藩35万7000石のうちからの内分知行であった)。
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楠木正成

くすのき まさしげ(?-1336)
登場回数:1作

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。 南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。 戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されていた。しかし、2000年前後以降は、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
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