偉人

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新納久仰

にいろ ひさのり(1807-1873)
登場回数:2作

新納 久仰(にいろ ひさのり)は、江戸時代後期の武士。薩摩藩家老。後年は葦洲と称した。
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森有礼

もり ありのり(1847-1889)
登場回数:1作

森 有礼(もり ありのり、旧字体:森 有禮、1847年8月23日(弘化4年7月13日) - 1889年(明治22年)2月12日)は、日本の政治家、外交官、思想家、教育者。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。 第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により戦前の教育制度を確立した。また明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に数えられる。
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真田信繁

さなだ のぶしげ(1567-1615)
登場回数:10作
別名:真田幸村

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。今でも多くの人に愛され続けている。
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神保内蔵助

じんぼ くらのすけ(1816-1868)
登場回数:1作
別名:神保利孝

神保 内蔵助(じんぼ くらのすけ、文化13年(1816年)- 慶応4年8月23日(1868年10月8日))は、江戸時代末期(幕末期)の武士。会津藩の家老。神保茂左衛門経周(つねちか)の嫡男。実名は神保利孝(としたか)という。妻は北原氏、子に神保修理(長輝)、北原雅長がいる。
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諏訪満隣

すわ みつちか(1501-1582)
登場回数:1作

諏訪 満隣(すわ みつちか)は、戦国時代の武将。信濃国諏訪氏の一族。『諏訪系譜』によれば、通称は新太郎・官途名は伊豆守・号は竺渓斎。
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水野忠精

みずの ただきよ(1832-1884)
登場回数:5作

水野 忠精(みずの ただきよ)は、江戸時代後期・末期の大名、老中。遠江浜松藩第2代藩主、出羽山形藩の初代藩主。忠元系水野家第12代。
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杉大方

すぎのおおかた(?-1545)
登場回数:1作

杉大方(すぎのおおかた、生年不詳 - 天文14年6月6日(1545年7月14日))は戦国時代の女性、毛利弘元の継室。毛利元就の養母として知られている。
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成瀬正成

なるせ まさなり(1567-1625)
登場回数:2作

成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。
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清円院

せいえんいん(1556-1579)
登場回数:1作
別名:華渓院

清円院(せいえんいん、弘治2年(1556年)? - 天正7年3月24日(1579年4月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。上杉景虎の正室(継室)。長尾政景の娘(長女)。実名は伝わっておらず、法名は華渓正春大禅定尼。法名から俗に華渓院とも呼ばれる。鎌倉明月院には清円院殿貞鏡尼公と記された位牌も伝わる。
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清水吉政

しみず よしまさ(?-1575)
登場回数:1作

清水 吉政(しみず よしまさ、生年未詳 - 天正3年10月23日(1575年11月25日))は、戦国時代の武将。北条氏家臣。通称・小太郎。右京亮とも名乗る。藤原姓を称した。伊豆清水氏の初代当主(実名は不明)の子で、同氏第2代当主清水綱吉(つなよし、下田城主清水康英の父)の弟。小太郎、右京亮。子に清水吉広がいる。 北条氏康の傅役であったとされ、幼少時は愚鈍といわれた氏康をよく補佐し、また自信を持たせるために数々の褒め言葉を呈した。享禄3年(1530年)氏康の初陣であった小沢原の戦いに従い、扇谷上杉朝興を破る。怪力の持ち主であったとの言い伝えもある。伊豆国河津南禅寺分を領し、周辺の主家直轄地の代官でもあった。
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