偉人

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西郷吉兵衛

さいごう きちべえ(1806-1852)
登場回数:3作

西郷 吉兵衛(さいごう きちべえ)は、幕末の薩摩藩の鹿児島城下士。通称は初め九郎、のち吉兵衛。諱は隆盛。西郷隆盛・従道兄弟の父。 家格御小姓与。勘定方小頭を務めていた。
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西笑承兌

さいしょう じょうたい(1548-1608)
登場回数:5作

西笑 承兌(さいしょう(せいしょう) じょうたい、天文17年(1548年) - 慶長12年12月27日(1607年2月13日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。相国寺承兌、泰長老とも呼ばれる。号は月甫、南陽。 山城国伏見(京都市伏見区)の人。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務め、伏見城下の指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老)に屋敷を構えたという。特に諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
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石井宗謙

いしい そうけん(1796-1861)
登場回数:1作

石井 宗謙(いしい そうけん、寛政8年(1796年) - 文久元年5月23日(1861年6月30日)は、江戸時代末期の医学者。
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石田重成

いしだ しげなり(?-?)
登場回数:1作

石田 重成(いしだ しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人物。石田三成の次男。諱は吉成(よしなり)ともする。
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赤埴重賢

あかばね しげかた(1669-1703)
登場回数:4作
別名:赤埴源蔵

赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる。
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千葉胤綱

ちば たねつな(1208-1228)
登場回数:1作

千葉 胤綱(ちば たねつな)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏の第6代当主。第5代当主・千葉成胤の子。鎌倉の甘縄に本拠地を置いた。
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川副久盛

かわぞえ ひさもり(?-1569)
登場回数:1作

川副 久盛(かわぞえ ひさもり 生年不詳 - 永禄12年(1569年))は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。官位は美作守。美作国林野城・勝山城(別名 高田城)城代。尼子経久から勝久の四代に仕え、尼子氏筆頭家老・美作方面軍司令・奉行衆として働いた。河副とも表記されており、実際にはこちらの読みの方が多い。
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浅野綱長

あさの つななが(1659-1708)
登場回数:1作

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期から中期にかけての国主・外様大名。安芸国広島藩の第4代藩主。浅野家19代当主。
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前田綱紀

まえだ つなのり(1643-1724)
登場回数:1作

前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩4代藩主。加賀前田家第5代。最後の女帝・後桜町天皇の外曾祖父。
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善阿弥

ぜんあみ(1386-1482)
登場回数:1作

善阿弥(ぜんあみ、元中3年/至徳3年(1386年)? - 文明14年(1482年)?)は、室町時代の庭師。河原者という被差別身分の出身ながら、室町幕府の8代将軍足利義政に重用された。 善阿弥作と伝えられるものに、長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒がある。応仁の乱の最中は奈良に移り、興福寺大乗院なども手掛けた。生年は、没時に97歳とあることからの推測で、明徳4年(1393年)とも。 興福寺中院の作庭においての待遇は「毎日三十疋、引物二千疋、手の物十一人、毎日人別二十疋宛、引物惣中五百疋」というものだった(『経覚私要鈔』)。睡隠軒の作庭を見た季瓊真蘂は「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯礀、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」と賞賛した。晩年の善阿弥が病床に伏した際には、義政は使者を遣わして見舞い、高貴な薬を届けたという。 子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、および彼の孫の又四郎による作品である。善阿弥などの作庭に携わった者や、作業を行った熟練した技術を持つ河原者たちを、特に山水河原者とも称する。
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