偉人

偉人

長尾政景

ながお まさかげ(1526-1564)
登場回数:3作

長尾 政景(ながお まさかげ)は、戦国時代の武将。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。
偉人

鳥居利右衛門

とりい りえもん(1643-1703)
登場回数:2作
別名:鳥居正次

鳥居 利右衛門(とりい りえもん、寛永20年(1643年) - 元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。高家旗本吉良義央の家臣。名は正次(まさつぎ)。 寛永20年(1643年)、吉良家臣の鳥居吉次の子として生まれる。父は元禄4年(1691年)12月23日に死去しており、この頃に家督相続したと思われる。用人50石。 元禄15年(1703年)12月15日、吉良義央に遺恨のある大石良雄ら元赤穂藩の浪人(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした(赤穂事件)。上杉氏の『大河内文書』によれば、討ち入りの際に吉良義央を逃がした後、須藤与一右衛門(50石近習頭・討死)とともに台所で赤穂浪士たちと戦ったが、相手は鎖帷子をつけていたため、致命傷を与えられず、首を斬りおとされた。幕府検死方はこの2人の働きぶりを褒めたという。 享年60。愛知県吉良町大字吉田西福寺に墓がある。法名は一峰暁颯信士。
偉人

辻維岳

つじ いがく(1823-1894)
登場回数:2作

辻 維岳(つじ いがく、男性、文政6年7月4日(1823年8月9日) - 明治27年(1894年)1月4日)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した武士・官僚である。 安芸国(現在の広島県西部)出身の広島藩士で、維新後は男爵。通称は初め勘三郎で、のち将曹(しょうそう / 「近衛府の四等官」を意味する)と改め、専らこの名前でよく知られている。号は僊風(せんぷう)。
スポンサーリンク
偉人

天野屋利兵衛

あまのや りへえ(1661-1733)
登場回数:1作
別名:天川屋儀兵衛

天野屋 利兵衛 (あまのや りへえ、寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の大坂の商人。名は直之(なおゆき)。 赤穂事件を題材にした「忠臣蔵」の物語において、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をした「義商」として知られているが、実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と関係のない人物である。本項では『仮名手本忠臣蔵』の登場人物である天川屋儀兵衛(天河屋義平、あまがわやぎへえ)や、実在の天野屋利兵衛と重ねあわされた「義商」のイメージについても解説する。
偉人

田代栄助

たしろ えいすけ(1834-1885)
登場回数:1作

田代 栄助(たしろ えいすけ、天保5年8月14日(1834年9月16日) - 明治18年(1885年)5月17日)は江戸時代から明治時代にかけての侠客、明治初期の代言人。秩父事件では困民党の総理として無血蜂起を指揮した。
偉人

渡辺勝

わたなべ すぐる(?-1524)
登場回数:1作

渡辺 勝(わたなべ すぐる)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸国長見山城主。
偉人

土岐頼遠

とき よりとお(?-1342)
登場回数:1作

土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の七男。兄弟に頼清、長山頼基、頼兼、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。
偉人

土方雄豊

ひじかた かつとよ(1638-1705)
登場回数:1作

土方 雄豊(ひじかた かつとよ、寛永15年11月19日(1638年12月24日) - 宝永2年7月1日(1705年8月19日))は、伊勢菰野藩の第3代藩主。 土方氏久(初代菰野藩主・土方雄氏の次男)の三男。母は松本藩主・水野忠清の娘。子は豊高(長男)、久長(次男)。通称は清十郎、主殿助、杢助。官位は従五位下・備中守、市正。 京都に生まれる。慶安3年(1650年)5月11日、伯父にあたる第2代藩主・雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、翌承応元年(1652年)2月8日に15歳で家督を相続した。寛文元年(1661年)12月13日、将軍・徳川家綱に初御目見し、28日に従五位下・備中守に叙任された。寛文2年(1662年)4月に初めて菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名として活躍し、将軍・家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に志摩鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。 天和3年(1683年)に院使饗応役を命じられているが、このとき播磨赤穂藩主・浅野長矩が相方の勅使饗応役を勤めていた。指南役は吉良義央であった。この時に浅野と土方は親しくなったようで、長矩の養子長広(長矩の実弟)は、雄豊の養女(長男・豊高の娘)と縁組することになる。 宝永2年(1705年)7月31日に死去した。享年68。菰野の見性寺に葬られた。法名は通霄院殿玄峯孤順大居士。家督は長男・豊高が父に先立って死去していたため、孫(豊高の長男)の豊義が継いだ。
偉人

島津久風

しまづ ひさかぜ(1794-1851)
登場回数:1作

島津 久風(しまづ ひさかぜ)は、江戸時代後期の薩摩藩家老。島津久尹(ひさはや)の子。子に島津久徴、赤山靭負、田尻務(田尻種賢)、桂久武らがいる。
偉人

島田虎之助

しまだ とらのすけ(1814-1852)
登場回数:1作

島田 虎之助(しまだ とらのすけ、文化11年4月3日(1814年5月22日) - 嘉永5年9月16日(1852年10月28日))は、江戸時代後期の剣客。諱は直親。号は峴山。 男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教や禅を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。
スポンサーリンク