偉人

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大須賀久兵衛尉

おおすが きゅうべえのじょう(?-1575)
登場回数:2作

大須賀 久兵衛尉(おおすが きゅうべえのじょう、生年不詳 - 天正3年5月21日(1575年6月29日))は、戦国時代の武将、信濃国更級郡の土豪。別称・佐渡守、実名は不詳。 桓武平氏千葉氏族。信濃小県郡の村上義清に従って武田晴信の信濃侵攻に抵抗していたが武田方に内通し、天文22年(1553年)には武田方に内応して狐落城(坂城町網掛)を陥落させ、城将の小島兵庫助らを討ち取って村上方の混乱を誘い、武田家に帰順した(『戦国遺文武田氏編』-554号)。 また布施(現在の長野市)における戦いでも功績があり、弘治3年(1557年)には狐落城攻略とあわせて晴信から褒章されている。北信地域において武田勢と越後の長尾景虎の勢力が対峙していた弘治元年(1555年)9月11日には、旭山城と見られる某城内に長尾方に内通したものが小屋に放火する事件が起こり、久兵衛はこの者を捕縛し、晴信から褒章されている(『戦武』-456号)。 以後も信玄・勝頼に仕えて戦功を挙げている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで、子の杢太郎とともに討死した。翌年、遺領を弟の小次郎が相続した。
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大村由己

おおむら ゆうこ(1536-1596)
登場回数:1作

大村 由己(おおむら ゆうこ、天文7年(1536年)? - 慶長元年5月7日(1596年6月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』の著者として知られる。
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大内義長

おおうち よしなが(1532-1557)
登場回数:1作

大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第17代で事実上最後の当主。実兄はキリシタン大名の大友宗麟。
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大友頼泰

おおとも よりやす(1222-1300)
登場回数:1作

大友 頼泰(おおとも よりやす)は鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏3代当主。
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滝川雄利

たきがわ かつとし(1543-1610)
登場回数:2作
別名:滝川友足/滝川一盛

滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。
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丹羽正伯

にわ しょうはく(1691-1756)
登場回数:1作

丹羽 正伯(にわ しょうはく、元禄4年(1691年) - 宝暦6年4月14日(1756年5月12日))は、江戸中期を代表する本草学者である。
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池田忠雄

いけだ ただかつ(1602-1632)
登場回数:1作

池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路洲本藩主、のち備前岡山藩2代藩主。因幡鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。
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竹俣慶綱

たけのまた よしつな(1524-1582)
登場回数:1作

竹俣 慶綱(たけのまた よしつな)は、戦国時代・安土桃山時代の越後国の武将、上杉氏の家臣で揚北衆の一人。竹俣清綱の孫。竹俣為綱の子。
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中御門経之

なかのみかど つねゆき(1821-1891)
登場回数:1作

中御門 経之(なかのみかど つねゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治期にかけての公卿、華族。麝香間祗候、大納言、留守長官等を歴任する。位階勲等は、従一位勲一等。
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中村五郎

なかむら ごろう(1849-1867)
登場回数:1作

中村 五郎(なかむら ごろう、嘉永2年(1849年) - 慶応3年6月14日(1867年7月15日))は、新選組隊士。諱は政常。 下野国宇都宮出身。北辰一刀流の腕前であった。慶応元年(1865年)4月の土方歳三、伊東甲子太郎、斎藤一らによる隊士募集に応じて、17歳で新選組に入隊。同年5月10日、京都へ入る。 慶応3年6月に新選組の幕臣取り立てが決定すると、尊皇攘夷思想の強かった佐野七五三之助・茨木司・富川十郎らと共に脱退を決意して、伊東らが新選組と分離して結成していた御陵衛士への入隊を希望するが拒否されてしまう。行き場を失った中村らは、会津藩京都守護職邸へ新選組脱退を嘆願するも、上手く事は運ばず、同地にて自刃した。享年19。
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