偉人北条時茂 ほうじょう ときしげ(1240-1270)登場回数:1作北条 時茂(ほうじょう ときしげ/ときもち)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。北条重時の三男で母は正室の平基親の娘。常盤流の祖。六波羅探題北方。 2020.09.01偉人
偉人北条貞時 ほうじょう さだとき(1272-1311)登場回数:1作北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。 2020.09.01偉人
偉人牧野伸顕 まきの のぶあき(1861-1949)登場回数:2作牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名はシンケンと通称されることもある。以前の諱は是利(これとし)。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。 2020.09.01偉人
偉人堀田正吉 ほった まさよし(1571-1629)登場回数:1作堀田 正吉(ほった まさよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、江戸幕府旗本。 当初、織田信長、そして浅野長政に仕え、文禄元年(1592年)より、小早川隆景、次代の養子小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602年)に秀秋が没すると、慶長10年(1605年)に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年(1624年)、福島正則が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子・正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。 正室のまんは、稲葉正成の継室・春日局の義娘(先妻の子)にあたり、子の正盛は早くより将軍徳川家光に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、大名となり子孫は繁栄した。 2020.09.01偉人
偉人本間精一郎 ほんま せいいちろう(1834-1862)登場回数:2作本間 精一郎(ほんま せいいちろう、天保5年(1834年) - 文久2年閏8月20日(1862年10月13日))は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。幼名は精兵衛、名は正高、字は至誠、号は不自欺斎。 2020.09.01偉人
偉人妙海尼 みょうかいに(1686-1774)登場回数:1作妙海尼 (みょうかいに、貞享3年(1686年) - 安永3年2月25日(1774年4月5日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の一人堀部武庸(安兵衛)の妻。俗名を幸。妻は自称との説もある。 元文の頃、妙海尼は泉岳寺の近くに形だけの庵を構え、夫・堀部武庸や、父・堀部弥兵衛、および義士たちの冥福を祈って彼らを供養した。また、旧主の浅野家が断絶したことを嘆いて、幕府に訴えることは二十回以上に及び、島流しを宣告されたこともあったが、なお強く訴え、いよいよ罰が下ろうとしたところをある人の恩恵によって免れる。再興はならなかったものの、『赤穂義士伝一夕話』によれば、せめて死者を悼む気持ちにでもと思って墓の前に常夜灯を掲げたところ、縁のある大名からの供物が絶えず与えられるようになった。泥棒に供物を盗まれることも多々あったが、恨みごとは一切口にせず、むしろそれらを貧しい人々に施し、自分は粗末な服を着て、常夜灯を守る生涯を送った。 逸話として、江戸の僧である伯父に出家を申し出た際に、遺体を洗い清める部屋に一晩寝かされるという試練を与えられ、難なくこなしたことで「出家を遂げることができる」と認められ、妙海の名を与えられたというものがある。 また興味を持って妙海尼の庵を訪れた丹波国篠山藩士の佐治為綱は、彼女の話を口述筆記して『妙海語』を執筆している。しかし、実際の武庸の妻・堀部きちは、享保5年(1720年)に肥後国熊本で死去しており、堀部家の内部事情に詳しかったことから堀部家の女中ではないかともいわれている。 妙海尼は91歳で死去するまで武庸の墓守りに従事し、死後は泉岳寺に葬られた。 なお、妙海尼を題材にした小説も執筆されており、井上ひさしの『不忠臣蔵』や柴田錬三郎の『裏返し忠臣蔵』がある。 2020.09.01偉人
偉人毛利元昭 もうり もとあきら(1865-1938)登場回数:1作毛利 元昭(もうり もとあきら、元治2年2月7日(1865年3月4日) - 昭和13年(1938年)9月24日)は、近代日本の華族、貴族院議員。毛利宗家29代当主。爵位は公爵。後に琢堂と号した。書が得意で、多くの石碑の揮毫を行った。 2020.09.01偉人
偉人木下家定 きのした いえさだ(1543-1608)登場回数:1作別名:杉原孫兵衛木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。備中国足守藩初代藩主。足守木下家初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。 2020.09.01偉人