偉人

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雲井龍雄

くもい たつお(1844-1871)
登場回数:2作

雲井 龍雄(くもい たつお)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての志士、集議院議員。本名は小島守善(もりよし)。 壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年(1868年)頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。
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永野修身

ながの おさみ(1880-1947)
登場回数:1作

永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
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遠藤丈庵

えんどう じょうあん(1836-?)
登場回数:1作

遠藤 丈庵(えんどう じょうあん、天保7年(1836年) - 没年不詳)は壬生浪士組の同士。生年は、天保5年(1834年)、天保10年(1839年)とも。 武蔵国忍藩出身の浪人。文久3年(1863年)に浪士組に参加。根岸の一番隊に配属される。 根岸友山らと京(現在の京都府京都市)に残留。 残留後は、芹沢一派(新見錦、平山五郎など)や試衛館一派(近藤勇中心。土方歳三・沖田総司など)には属さず、殿内・家里一派(根岸、清水吾一など)に属した。 同月下旬に根岸、清水、鈴木長蔵らと共に江戸に戻る。 江戸に戻った後、新徴組に入隊したが、同年9月12日に総員小普請方伊賀者次席に召抱えられたため脱退。その後の消息は不明。
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奥平信昌

おくだいら のぶまさ(1555-1615)
登場回数:4作
別名:奥平貞昌

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。
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岡上樹庵

おかのうえ じゅあん(1828-1871)
登場回数:2作

岡上 樹庵(おかのうえ じゅあん、文化11年(1815年)- 明治4年7月3日(1871年8月18日))は、幕末の土佐国の医者。名は新甫(しんすけ)。 実家は土佐藩士・藤田氏。先妻は不明だが、後妻に坂本龍馬の姉・乙女を迎えている。 代々土佐藩主の御典医を務める岡上家を天保10年(1839年)に継ぎ、藩主・山内容堂の寵愛を受けた。若い頃の容堂は度々岡上家を訪れては衣服などを下賜していたと言われている。 安政3年(1856年)頃、すぐ向かいに邸宅を持っていた坂本家の三女・乙女を後妻に迎え、その間には一男一女を生している(長女、岡上菊栄は高知県での慈善活動で著名)。義弟にあたる坂本龍馬が脱藩した際には、坂本家に害が及ばぬ様に容堂に働きかけたとも言われている。尤も夫婦仲はあまり良くなかったと伝わっており、樹庵の浮気の他にも樹庵の祖母と乙女の仲は芳しくなく、慶応3年(1867年)には乙女と離縁している。 その後も坂本家との交流は少なからず存在したが、明治4年(1871年)長男・赦太郎が亡くなると、後を追うように病没した。赦太郎の墓参による疲労が病に繋がったと言われている。樹庵の死後、家族は樹庵の兄の家である藤田家に身を寄せた。 身長が低く、怒りやすかったとされる。
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岡本寧浦

おかもと ねいほ(1789-1848)
登場回数:1作

岡本 寧浦(おかもと ねいほ、寛政元年〈1789年〉 - 嘉永元年10月9日〈1848年11月4日〉)は、幕末の土佐藩士、儒学者。名は惟密。通称は大年、退蔵。雄峰、除闇と号した。
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加藤清正

かとう きよまさ(1562-1611)
登場回数:16作
別名:虎之助

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。 通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも、清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。これは、ひとえに新田開発や治水工事で実績を上げたことによるところが大きい。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
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河井継之助

かわい つぎのすけ(1827-1868)
登場回数:2作

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。
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河田小龍

かわだ しょうりょう(1824-1898)
登場回数:2作

河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも。文政7年10月25日(1824年12月15日) - 明治31年(1898年)12月19日)は日本画家、思想家。通称篤太郎、本名は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、翠竹斎、半舫斎の書斎号も称す。
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海老原穆

えびはら ぼく(1830-1901)
登場回数:1作

海老原 穆(えびはら ぼく、天保元年1月3日(1830年1月27日) - 明治34年(1901年)6月)は、日本のジャーナリスト、陸軍軍人(陸軍大尉)、武士。
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