偉人

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三村包常

みむら かねつね(1667-1703)
登場回数:3作
別名:三村次郎左衛門

三村 包常(みむら かねつね、寛文7年(1667年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。
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山科言継

やましな ときつぐ(1507-1579)
登場回数:1作

山科 言継(やましな ときつぐ)は、戦国時代の公卿。山科言綱の子。官位は正二位・権大納言、贈従一位。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
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山城屋和助

やましろや わすけ(1836-1872)
登場回数:1作

山城屋 和助(やましろや わすけ、天保7年(1836年) - 明治5年11月29日(1872年12月29日))は、明治時代初期の陸軍省御用商人。元・長州藩奇兵隊隊士。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し割腹自殺したことで知られる。
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山内康豊

やまうち やすとよ(1549-1625)
登場回数:1作

山内 康豊(やまうち やすとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。初代土佐藩主・山内一豊の同母弟。
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山本三郎

やまもと さぶろう(1848-1868)
登場回数:1作

山本 三郎(やまもと さぶろう、嘉永元年(1848年) - 慶応4年1月16日(1868年2月9日))は、幕末期の会津藩士。山本覺馬、新島八重(旧姓:山本)の弟にあたる。 1848年、父・山本権八と母・佐久の三男として誕生。兄の覺馬とは20歳、姉の八重とは3歳、年が離れている。 1868年の鳥羽・伏見の戦いに会津藩諸生隊として参戦、この戦闘で銃弾を浴び、海路江戸へ搬送されるが、江戸の会津藩中屋敷で死去。享年20。 三郎の遺髪と着衣は山本家に送られ、会津戦争の際に若松城に籠城する八重が三郎の衣服を着用して入城したと伝わる。
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四王天政孝

しおうてん まさたか(?-1582)
登場回数:2作

四王天 政孝(しおうてん/しほうてん まさたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。明智光秀の家臣。通称は又兵衞または但馬守を称した。姓は「四王田」ともされる。
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市来正之丞

いちき しょうのじょう(1822-1874)
登場回数:1作

市来 正之丞(いちき しょうのじょう、文政5年(1822年) - 明治6年(1874年))は、幕末の薩摩藩士。通称は六左衛門。妻は西郷隆盛の妹である琴。 義兄である西郷隆盛へ書簡を多々送るなど、隆盛との関係はとても親密だった。慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会ではヨーロッパに使節団として渡っている。明治6年(1874年)に、政変で敗れた西郷隆盛が参議を辞職して鹿児島県へ帰郷した直後に、病気のため亡くなった。
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寺井玄渓

てらい げんけい(1622-1711)
登場回数:2作

寺井 玄渓(てらい げんけい、元和8年(1622年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期から中期にかけての医師。 玄渓とその父はもともと播磨国明石藩主本多政利(6万石)に仕えていたという。しかし本多政利は何かと不行跡が多く、天和2年(1682年)藩政を咎められて陸奥国大久保藩主1万石に減知転封されてしまう。この大幅な減知にも玄渓は本多家に残れたが、主君政利はその後も些細なことで侍女を殺害するなどの不行跡が絶えず、ついに元禄6年(1693年)に完全に領地を召し上げられた。 主家を失った玄渓は京都で医業を開業していたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えた。元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷(赤穂事件)時には江戸藩邸に詰めていたが、その後直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動する。赤穂城開城後は京都へ移った。元禄15年(1702年)7月、浅野長広の広島藩お預かりが決まり、良雄が江戸へ下る決意をすると玄渓もお供しようとしたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止している。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送って赤穂浪士たちの医療を担当させたという。 宝永8年(1711年)2月20日に京都で死去。享年90。墓は京都の長楽寺にある。法名は桐庵玄渓居士。
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宍戸隆家

ししど たかいえ(1518-1592)
登場回数:1作

宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸家の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。
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謝国明

しゃ こくめい(?-?)
登場回数:1作

謝国明(しゃこくめい、生年未詳 - 建長5年(1253年)5月以前)は鎌倉時代中期の貿易商人。南宋人。杭州臨安府出身。博多綱首。(博多綱首とは、博多の唐房に住み、船を所有して日宋貿易に従事した宋人のこと)。博多の伝承では、唐鋏を日本に伝えたほか(後に博多鋏へ発展)、年越し蕎麦や鍼の元祖と伝えられる。
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