偉人

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呂宋助左衛門

るそん すけざえもん(1565-?)
登場回数:2作

呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、永禄8年(1565年)? - 没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。別名で菜屋助左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)ともいう。堺の貿易商・納屋才助の子。
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脇坂安治

わきざか やすはる(1554-1626)
登場回数:3作

脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主、伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。官位は従五位下・中務少輔、淡路守。家紋は「輪違い」。
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潘阜

はん ふ(?-?)
登場回数:1作

潘阜(はん ふ / パン プ(朝鮮語: 반부))は、中国の元朝の文官であり、朝鮮の氏族の巨済潘氏の始祖である。 中国の南宋の理宗時代に文科に首席で及第、翰林学士となり、吏部尚書を務めたが、忠烈王に降嫁された荘穆王后の師父として高麗に入国、政堂文学を歴任した。また、金方慶に従い、元寇にも参戦した。 その後、官職は侍中、岐城府院君にまで達し、65歳になると官職を辞職、巨済に定住し、余生を終えた。
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渋沢成一郎

しぶさわ せいいちろう(1838-1912)
登場回数:1作
別名:渋沢喜作

渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう、1838年7月30日〈天保9年6月10日〉 - 1912年〈大正元年〉8月30日)は、幕末から大正期の日本の豪農、攘夷運動家、武士、実業家。諱は英明、号は廬陰。成一郎は武士身分であった時代の名乗り(通称)。旧名及び明治以降は渋沢喜作(しぶさわ きさく)を名乗った。族籍は東京府平民。 幕末に従弟の渋沢栄一らとともに攘夷運動をしていたが、後に一橋家に召し抱えられて徳川慶喜に仕える。鳥羽・伏見の戦い後、彰義隊を結成し頭取となるも副頭取天野八郎との対立で脱隊。その後振武軍を組織して官軍に抗するも敗北、箱館で敗北した後に官軍に逮捕された。1871年の出所後、渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕。1873年に出張先のイタリアから帰国後に退官して小野組に入社、同社破産後渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立。東京深川で回米問屋、神奈川横浜で生糸売込問屋を経営した。東京商法会議所設立発起人、深川正米市場初代総行事、東京商品取引所理事長、大日本人造肥料取締役なども務めた。
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森山栄之助

もりやま えいのすけ(1820-1871)
登場回数:2作
別名:森山多吉郎

森山 栄之助(もりやま えいのすけ、または森山多吉郎、文政3年6月1日(1820年7月10日) - 明治4年3月15日(1871年5月4日))は、江戸時代に活躍した日本の通詞(通訳)。
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椋木潜

むくのき ひそむ(1828-1912)
登場回数:1作

椋木 潜(むくのき ひそむ)は、幕末から明治時代の武士(津和野藩士)、志士、教育家。
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村上泰治

むらかみ たいじ(1867-1887)
登場回数:1作

村上 泰治(むらかみ たいじ、慶応3年8月28日(1867年9月25日) - 明治20年(1887年)6月18日)は、明治時代初期の自由民権運動家。10代半ばで活動家を志し、秩父自由党の象徴的存在で実質指導者の立場にあったとされる人物である。
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榊原新左衛門

さかきばら しんざえもん(1834-1865)
登場回数:1作

榊原 照煦(さかきばら てるあき)は幕末期の政治家であり尊皇志士。通称は新左衛門。位階は贈従四位。
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保科正敬

ほしな まさたか(?-1883)
登場回数:1作
別名:保科俊太郎

保科 正敬(ほしな まさたか、? - 明治16年(1883年)6月29日)は、幕末の旗本寄合席で幕府陸軍所属。横浜仏語伝習所第1期生。パリ万国博覧会使節団の一員。明治時代の大日本帝国陸軍軍人で熊本鎮台小倉営所歩兵第14連隊所属。正敬は諱、通称は俊太郎。父は保科栄次郎。実家は飯野藩主家分家の旗本保科家で、元禄時代から幕末までの実家の石高は上野国群馬郡・吾妻郡のうち2500石。屋敷は虎ノ門新道。 幕末は保科俊太郎、明治以降は保科正敬として知られる。「保科主税」と称したかは不明。
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坂氏

さかし(?-1583)
登場回数:1作

坂氏(さかし、? - 天正11年(1583年)4月)は、安土桃山時代の女性。織田信長の側室。織田信孝の生母。名は不詳。
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