偉人

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小栗忠順

おぐり ただまさ(1827-1868)
登場回数:5作

小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。
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小寺氏職

こでら うじもと(?-1627)
登場回数:1作

小寺 氏職(こでら うじもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武士。筑前国福岡藩士。
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小曽根英四郎

こぞね えいしろう(1840-1890)
登場回数:3作

小曽根 英四郎(こぞねえいしろう、1840年 - 1890年3月6日)は、江戸時代から明治時代まで活躍した長崎の豪商。
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小野寺秀和

おのでら ひでかず(1643-1703)
登場回数:4作
別名:小野寺十内

小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。変名は、仙北十庵。
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尚寧王

しょうねいおう(1564-1620)
登場回数:1作

尚寧王(しょうねいおう、1564年(嘉靖43年) - 1620年10月14日(万暦48年/泰昌元年9月19日))は、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王(在位1589年 - 1620年)。
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松下之綱

まつした ゆきつな(1537-1598)
登場回数:2作

松下 之綱(まつした ゆきつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉が織田氏の家臣になる以前に仕えた人物で、之綱は秀吉の恩人であり、『太閤記』では武芸・学問・兵法などを教えたとされる。
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松田七郎左衛門

まつだ しちろうざえもん(?-?)
登場回数:1作

松田 七郎左衛門(まつだ しちろうざえもん、生没年不詳)は、戦国時代の武将、後北条氏の家臣。相模松田氏の一族か。 詳細は不明だが山本勘助関連の伝承によると、今川義元への仕官を断られた勘助が北条氏康の武術指南役であった七郎左衛門に取り入って仕官を申し出たという。しかし氏康は勘助の容貌を嫌って申し出を拒否し、勘助は小田原を離れたという。
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松平康正

まつだいら やすまさ(1821-?)
登場回数:1作

松平 康正(まつだいら やすまさ、文政4年(1821年) - 没年不詳)は、江戸時代末期の旗本(交代寄合表御礼衆)。下総国飯笹領主(6000石)。松平康豊(中務)の弟。幼名は勝千代。通称は禎之助または禎之丞。官途は因幡守、のちに出雲守。室は前田利豁養妹。子に松平豊三郎。 飯笹松平家は、徳川家康の異父弟松平康元を初代とする久松松平家の一家系である。文久3年(1863年)8月、大番頭から大目付となる。元治元年(1864年)4月26日、蒔田広孝とともに京都見廻役となり、出雲守に遷任する。慶応2年(1866年)、見廻役を解かれた。交代寄合で参勤交代を行うその格式ゆえ、村民は夫役に苦しんだ(『多古町史』)。
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松平正綱

まつだいら まさつな(1576-1648)
登場回数:1作

松平 正綱(まつだいら まさつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。相模国玉縄藩初代藩主。大河内松平宗家初代。世界最長の並木道である日光杉並木の寄進者として知られる。
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松平茂昭

まつだいら もちあき(1836-1890)
登場回数:1作

松平 茂昭(まつだいら もちあき)は、幕末から明治初期にかけての大名・華族。越後国糸魚川藩7代藩主(越前松平家分家9代)、越前国福井藩17代(最後の)藩主。維新後は福井藩知事、侯爵となる。
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