偉人

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二階堂貞藤

にかいどう さだふじ(1267-1335)
登場回数:1作

二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ)は、鎌倉時代後期の御家人。鎌倉幕府政所執事。法名の道蘊(どううん)で呼ばれることも多い。
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尼子国久

あまご くにひさ(1492-1554)
登場回数:1作

尼子 国久(あまご くにひさ)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣で、新宮党の党首。
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日野富子

ひの とみこ(1440-1496)
登場回数:1作

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍・足利義政の正室(御台所)。父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍・足利義尚の母。従一位。
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波多野義常

はたの よしつね(?-1180)
登場回数:1作

波多野 義常(はたの よしつね)は、平安時代末期の武士。相模波多野氏6代。
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白石宗直

しろいし むねなお(1577-1629)
登場回数:1作

白石 宗直(しろいし むねなお)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。梁川宗清の長男。登米伊達家初代当主。
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八重姫

やえひめ(?-?)
登場回数:2作

八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。伊豆国伊東庄(現・静岡県伊東市)の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の三女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。 『延慶本 平家物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『曽我物語』などの物語類にのみ登場し、同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料には見えない。また前述の物語類にも名は記されておらず、「八重姫」の名は室町後期から江戸期にかけて在地伝承として生まれた名だと思われ、文献では江戸時代末期の伊豆の地誌『豆州誌稿』に初めて現れる。また江戸時代前期成立の『東奥軍記』『和賀一揆次第』では名を「万功御前」としている。
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飯坂宗康

いいざか むねやす(?-1589)
登場回数:1作

飯坂 宗康(いいざか むねやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊達氏庶流・飯坂氏14代当主。陸奥国信夫郡飯坂城主。伊達政宗側室・飯坂の局の父。
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樋爪俊衡

ひづめ としひら(?-?)
登場回数:1作

樋爪 俊衡(ひづめ としひら)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての武将。奥州藤原氏の初代藤原清衡の四男・清綱の子(異説あり)。 なお、「ひづめ」の表記は樋爪のほかに、「比爪」、「火爪」など複数見られる。
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不破正種

ふわ まさたね(1670-1703)
登場回数:4作
別名:不破数右衛門

不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓は平氏。家紋は隅角切に横一。
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武田勝頼

たけだ かつより(1546-1582)
登場回数:12作
別名:諏訪勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第17代当主。 通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。 強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。 近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
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