偉人

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毛利師就

もうり もろなり(1706-1735)
登場回数:1作

毛利 師就(もうり もろなり)は、長門国長府藩7代藩主。 第6代藩主・毛利匡広の五男。母は下村氏(相子・超俊院)。諱ははじめ親就(ちかなり)、後に師就。
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木下頼継

きのした よりつぐ(?-1600)
登場回数:1作

木下 頼継(きのした よりつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名。大谷吉継の次男とされるが、甥であるとも養子であるともいわれている。官位は山城守。兄に吉治。
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問田大方

といだのおおかた(?-1619)
登場回数:1作

問田大方(といだのおおかた、? - 元和5年5月20日(1619年6月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。戦国大名・毛利元就の三男で、毛利両川として知られる小早川隆景の正室。
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矢島局

やじまのつぼね(?-?)
登場回数:1作

矢島局(やじまのつぼね、生没年不詳)は、江戸時代の幕府4代将軍・徳川家綱の乳母である。旗本矢島氏の祖。父は木曽氏流八島氏。夫は豊田清左衛門。名跡相続者は矢島義充(豊田清左衛門の子)。
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柳生利厳

やぎゅう としとし(1579-1650)
登場回数:2作

柳生 利厳(やぎゅう としとし/としよし)は、江戸時代初期の剣術家。大和国出身の武士。父は柳生宗厳(石舟斎)の長男・柳生厳勝。妻に島清興の娘の珠。通称は兵助、兵庫助、茂佐衛門。初名は長厳。号は如雲斎、四友居士など。伊予守(自称)。新陰流第三世。 祖父・石舟斎の薫陶を受けて剣術(新陰流)の奥義に達し、阿多棒庵より新当流槍術・穴沢流薙刀術を学んで皆伝を授かる。はじめ肥後熊本の加藤清正に仕えたが致仕し、後に尾張徳川家に仕えた。尾張藩では藩主・徳川義直に剣術・槍術・長刀術を相伝するなど、御流儀としての新陰流の地位を確立し、現代まで新陰流を伝える尾張柳生家の礎を築いた。
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有馬藤太

ありま とうた(1837-1924)
登場回数:1作

有馬 藤太(ありま とうた、天保8年(1837年) - 大正13年(1924年))は、幕末期の薩摩藩士。東山道総督府斥候。名は純雄。
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来島又兵衛

きじま またべえ(1817-1864)
登場回数:8作

来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末の長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。
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龍造寺政家

りゅうぞうじ まさいえ(1556-1607)
登場回数:1作

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。官位は従四位下・侍従、肥前守。
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鈴木元信

すずき もとのぶ(1555-1620)
登場回数:1作

鈴木 元信(すずき もとのぶ、弘治元年(1555年) - 元和6年(1620年)6月)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。通称は七右衛門。別名に秀信とも。官位は従五位下。和泉守。 出自や伊達氏に仕えるまでの経緯については諸説あり、天正期には雑賀衆に参加していた説、京都の茶人で伊達政宗と知り合い家臣となったという説、米沢地方の住人で謡に優れていたことから伊達輝宗に召抱えられたという説(治家記録)、鮎貝地方の臼ヶ沢金山を経営していた豪商であった説(鮎貝の歴史)などがある。 行政や財務の能力に優れ、政宗の厚い信任を受けて古川城に1500石の所領を与えられ、政宗が仙台を留守中には国家老として政務を執った。慶長から元和時代の分限帳では本人の禄が2464石ながら、一門・家士の禄が別に1万石から2万石を与えられ、家臣団の筆頭となっている。 元信は、政宗が天下人になり幕府を開くことを想定し、「憲法」や「条々」などを用意していた。しかし死の直前、政宗が天下を取ることもないと悟って(徳川の天下が磐石となったため、そのような物が公になれば仙台藩謀反の疑いをかけられる恐れもあり)、それらを全て焼き捨てさせたといわれている。墓所は大崎市古川の瑞川寺。 旗印は白地に大きな黒百足。(仙台市博物館所蔵) 現在も大崎市の熊野神社境内で開催される朝市、「八百屋市」は元信が起源とされる。
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六角義治

ろっかく よしはる(1545-1612)
登場回数:1作

六角 義治(ろっかく よしはる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。南近江の戦国大名。六角氏16代当主。六角 義弼(ろっかく よしすけ)と呼ばれることもある。
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