偉人

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北条茂時

ほうじょう しげとき(?-1333)
登場回数:1作

北条 茂時(ほうじょう しげとき/もちとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府の最後の連署である。 父は政村流で鎌倉幕府の第12代執権・北条煕時。母は第9代執権・北条貞時の娘。
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牧野忠訓

まきの ただくに(1844-1875)
登場回数:1作

牧野 忠訓(まきの ただくに)は、越後長岡藩の第12代藩主。長岡藩系牧野家宗家13代。
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堀内氏久

ほりうち うじひさ(1595-1657)
登場回数:1作

堀内 氏久(ほりうち うじひさ、文禄4年(1595年) - 明暦3年8月20日(1657年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は氏定(うじさだ)。通称は主水。堀内氏善の子。母は九鬼嘉隆の養女。妻は長谷川氏。兄に新宮行朝がいる(叔父との説あり)。子は氏衡、氏成、氏勝。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、戦後に父が改易されたため、紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕えた。慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、兄の行朝と共に大坂城に籠城した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月7日の大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。この時家康に拝謁し、戦後はこの功により下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召抱えられた。また、氏久の功により兄の行朝も赦されている。大番、次いで二条城の守衛を務めていたが、在任中の明暦3年(1657年)8月20日に63歳で死去した。法名は理円。墓所は京都府京都市北区の天寧寺。跡は長男の氏衡が継いだ。
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本多康紀

ほんだ やすのり(1579-1623)
登場回数:1作

本多 康紀(ほんだ やすのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。三河岡崎藩の第2代藩主。広孝系本多家2代。
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末近信賀

せちか のぶよし(?-1582)
登場回数:1作

末近 信賀(せちか のぶよし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。小早川隆景の家臣。苗字の読みは「すえちか」とも。
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夢窓疎石

むそう そせき(1275-1351)
登場回数:1作

夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)。宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖。 後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。たとえば、後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。初期室町幕府の実質的指導者である直義との対話を記録した『夢中問答集』は、聖と政の第一人者同士の対談として、思想史上重要である。 禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。後醍醐帝の鎮魂のために建立された天龍寺の造営にあたっては、直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。さらに、五山文学の有力漢詩人であり、和歌においても勅撰和歌集に11首が入集するなど、文学史上でも足跡を残している。
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茂木善作

もぎ ぜんさく(1893-1974)
登場回数:1作

茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。
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毛利秀広

もうり ひでひろ(?-1581)
登場回数:1作

毛利 秀広(もうり ひでひろ、生年不詳 - 天正9年9月9日(1581年10月6日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。名左衛門。 越後北条氏分家に生まれ、本家の北条高広の下で活躍する。後に越後上杉氏臣下の河田長親の与力として越中方面に活躍の場を移す。 御館の乱では当初景虎方であったが安田顕元の手引きで恩賞と引き換えに景勝方へと鞍替え。武田家との折衝役を務めるなど大きな功績を残した。しかし乱後の論功行賞に於いて恩賞が無く、調べたところ景勝は恩賞を出す事に納得していたが、儒者であり景勝側近の山崎秀仙の意見により景勝出処の上田衆のみを厚遇していたことを知り、春日山城内において直江信綱と会談中の秀仙を急襲し殺害。信綱も秀広に傷を負わせたものの刺殺。その場に居合わせた岩井信能により討ち取られた。
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木戸幸一

きど こういち(1889-1977)
登場回数:2作

木戸 幸一(きど こういち、1889年(明治22年)7月18日 - 1977年(昭和52年)4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。
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野口源三郎

のぐち げんざぶろう(1888-1967)
登場回数:1作

野口 源三郎(のぐち げんざぶろう、1888年(明治21年)8月24日 - 1967年(昭和42年)3月16日)は、日本の陸上競技選手・指導者、体育学者。東京教育大学・東京高等師範学校・埼玉大学名誉教授。埼玉県榛沢郡横瀬村(現・深谷市)の出身であり、埼玉県初のオリンピック選手である。 選手としては十種競技を専門とし、第3回極東選手権競技大会で優勝、アントワープオリンピックに日本選手団の主将として出場し、12位という成績を収めている。指導者としては洋書を片手に指導を開始し、日本に最新の陸上競技の知識と技能を伝え、東京文理科大学陸上競技部では部長として日本学生陸上競技対校選手権大会で部を6度の優勝に導いた。体育学者としては陸上競技や学校体育の向上に尽力し、研究成果を本や論文として即座に発表して選手に還元した。これらの功績から「日本における近代陸上競技の父」と称される。
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