鳴梁海戦(1597年) | 大河ドラマのできごと |

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鳴梁海戦

時期1597年

鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉の慶長の役により慶長二年(1597年)9月16日(和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった海戦。李舜臣の指揮する朝鮮水軍が日本水軍の先鋒の来島勢に大きな損害を与えた。しかし残存兵力の少ない朝鮮水軍は兵力温存を図り、唐笥島、於外島、七山島、法聖浦、蝟島を経由し北方の古群山島付近まで後退した。朝鮮水軍の撤退後、日本水軍は六・七里ほど追撃したが日が暮れまた水路不案内によりそれ以上は攻撃しなかった。韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、「李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦い」と認識されている。欧米の一部の歴史学者の認識も韓国の見解に近い。李舜臣の乱中日記には日本軍が攻めてこなくなったので安全策をはかり西上したとあるが、毛利高棟文書には朝鮮軍が「逃退」したとあり、久留島家文書には日本軍が朝鮮軍を「即時追散」したとある。いずれにせよ李舜臣は全羅右水営を放棄せざるをえず、一ヵ月後に帰還した際にはその周囲の荒れようを嘆いている。

朝鮮の勝利

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