偉人

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伊達政宗

だて まさむね(1567-1636)
登場回数:12作
別名:梵天丸

伊達 政宗(だて/いだて まさむね)は、出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県、福島県)の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩(宮城県、岩手県南部)の初代藩主である。
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伊東祐亨

いとう ゆうこう(1843-1914)
登場回数:1作

伊東 祐亨(いとう ゆうこう / すけゆき、1843年6月17日(天保14年5月20日) - 1914年(大正3年)1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。
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井伊直興

いい なおおき(1656-1717)
登場回数:2作

井伊 直興(いい なおおき)は、江戸時代前期から中期の譜代大名。江戸幕府大老。近江彦根藩の第4代藩主および第7代藩主。直治(なおはる)、直該(なおもり)とも名乗る。 井伊直縄(第2代藩主・井伊直孝の四男)の長男。母は桜居氏。正室は蜂須賀隆重の娘と縁組するが、婚儀までに死去。側室は平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏。子に直通(次男)、直恒(三男)、直矩(四男)、直惟(五男)、直定(六男)、娘(井伊直朝正室)、娘(阿部正喬正室)、房(三条公充室)、娘(木俣守吉室、後に木俣守嘉室)、娘(松平康弘室)、娘(印具保重室)ら。幼名は吉十郎。官位は正四位上左中将、掃部頭。
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井上義斐

いのうえ よしあや(?-?)
登場回数:1作

井上 義斐(いのうえ よしあや、生没年不詳)は、江戸時代末期の旗本。別名茂輔。通称は元七郎。官位は従五位、主水正、備後守。
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磯野員昌

いその かずまさ(1523-1590)
登場回数:2作
別名:磯野秀昌

磯野 員昌(いその かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。近江国佐和山城主。
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一色藤長

いっしき ふじなが(?-1596)
登場回数:3作

一色 藤長(いっしき ふじなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。室町幕府の御供衆。
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稲葉良通

いなば よしみち(1515-1589)
登場回数:6作
別名:稲葉一鉄

稲葉 良通(いなば よしみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称された。 号は一鉄(いってつ)。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。
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羽柴秀勝

はしば ひでかつ(?-1576)
登場回数:2作

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。 他の秀勝(於次丸秀勝、小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。
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永井道明

ながい どうめい〔みちあき〕(1869-1950)
登場回数:1作

永井 道明(ながい どうめい(みちあき)、明治元年12月18日(1869年1月30日) - 1950年(昭和25年)12月13日)は、日本の体育指導者・教育者。スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』の制定に尽力することで教科としての体操の確立と発展に寄与し、体育教師の地位向上に貢献したことから、日本の体操の父と称される。また長方形のコートで行うドッジボールを日本に伝え、日本独自のルールを取り入れた人物でもある。 道明が取りまとめた『学校体操教授要目』は「学校体育指導要綱」を経て「学習指導要領体育編」へとつながっていく。また道明が普及させた規律・訓練的な身体と精神性は、学校体育の現場で、整列・号令・姿勢・統一的な動きなどの形で現代の日本に残存している。
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円融院

えんゆういん(1549-?)
登場回数:4作

円融院(えんゆういん、天文18年(1549年) - 没年不詳)は、日本の戦国時代の女性。三浦桃寿丸・宇喜多秀家・容光院(吉川広家室)らの母。三浦貞勝、宇喜多直家に嫁ぎ、一説に豊臣秀吉の側室的な存在だったともいうが、定かではない。
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