偉人

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藤原忠通

ふじわら の ただみち(1097-1164)
登場回数:2作

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。
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藤原頼嗣

ふじわら の よりつぐ(1239-1256)
登場回数:1作

藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉幕府5代将軍。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍。九条頼嗣とも呼ばれる。
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陶晴賢

すえ はるかた(1521-1555)
登場回数:1作
別名:陶隆房

陶 晴賢 / 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。 晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大友義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。
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徳川家達

とくがわ いえさと(1863-1940)
登場回数:3作

德川 家達(とくがわ いえさと、1863年8月24日〈文久3年7月11日〉- 1940年〈昭和15年〉6月5日)は、日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。号は静岳。世間からは「十六代様」と呼ばれた。 1865年(元治2年)に御三卿田安徳川家7代当主、徳川慶喜の隠退謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家16代当主となり、明治初期に駿河静岡藩主(知藩事)を務める。廃藩置県後に貴族院議員となり、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)までの30年にもわたって第4代から第8代までの貴族院議長を務めた。またワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長なども歴任。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。
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徳川綱教

とくがわ つなのり(1665-1705)
登場回数:2作

徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、紀州藩の第3代藩主。
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徳川徳松

とくがわ とくまつ(1679-1683)
登場回数:1作

徳川 徳松(とくがわ とくまつ、延宝7年5月6日(1679年6月14日) - 天和3年閏5月28日(1683年7月22日))は、徳川将軍家の世嗣で上野館林藩主。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男。
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那須信吾

なす しんご(1829-1863)
登場回数:2作

那須 信吾(なす しんご、文政12年11月11日(1829年12月6日)- 文久3年9月24日(1863年11月5日))は、幕末期の土佐藩の郷士。諱は重民。名は虎吉とも。変名に石原幾之進。
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内藤清成

ないとう きよなり(1555-1608)
登場回数:1作

内藤 清成(ないとう きよなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。後の高遠藩内藤家初代。内藤家は岡崎譜代の家であった。
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楠本イネ

くすもと いね(1827-1903)
登場回数:1作

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日)は、日本の医師。現在の長崎県長崎市出身。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。
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二条昭実

にじょう あきざね(1556-1619)
登場回数:1作

二条 昭実(にじょう あきざね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。関白、准三宮。摂関家二条家の当主。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王の娘・位子女王。 織田信長の養女・実娘を娶ったのをはじめ、豊臣秀吉・徳川家康など天下人との接触が多かった。
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