偉人

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三浦梧楼

みうら ごろう(1847-1926)
登場回数:1作

三浦 梧楼(みうら ごろう、旧字体:三浦 梧樓、弘化3年11月15日〈1847年1月1日〉 - 大正15年〈1926年〉1月28日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵。号は観樹。
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三条実美

さんじょう さねとみ(1837-1891)
登場回数:12作
別名:梨木誠斉

三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條 實美、1837年3月13日(天保8年2月7日)- 1891年(明治24年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣も兼任している。
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三木琴

みき こと(?-1848)
登場回数:1作

三木 琴(みき こと、弘化4年(1848年) - 明治7年(1874年)8月27日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。薩摩藩家老小松清廉(帯刀)の側室。明治維新前の本名は琴仙子。別名、お琴、琴子。
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山際七司

やまぎわ しちじ(1849-1891)
登場回数:1作

山際 七司(やまぎわ しちじ / しちし、1849年1月25日(嘉永2年1月2日)- 1891年(明治24年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員。諱・義晴、字・鵬挙。号・海州、任天。
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山田顕義

やまだ あきよし(1844-1892)
登場回数:3作

山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体:山田 顯義、1844年11月18日(天保15年旧暦10月9日) - 1892年(明治25年)11月11日)は、明治時代の日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝、のち顕義と改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。山田 空斎(やまだ くうさい)とも名乗る。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等伯爵。
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山本覚馬

やまもと かくま(1828-1892)
登場回数:1作

山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
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山名政豊

やまな まさとよ(1441-1499)
登場回数:1作

山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。山城・安芸・但馬・備後守護。応仁の乱の西軍総大将で知られる山名宗全の後継者。「政」の字は8代将軍足利義政より偏諱を賜ったものと思われる。
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市川信定

いちかわ のぶさだ(?-?)
登場回数:1作

市川 信定(いちかわ のぶさだ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内一豊の家臣。通称は山城。父は市川定照(若狭武田氏の家臣)。 市川氏は若狭国三方郡能登野(福井県三方上中郡若狭町能登野)の土豪。 長浜城主時代の山内一豊に仕えた。火矢の名手で小田原征伐では活躍し、一豊が遠江国掛川城に封じられた際、千石を領したという。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、一豊は徳川家康に従い会津征伐に参加していたが、会津攻めに出陣した大名の家族を人質に取ろうとした大坂の石田三成の手から見性院(千代)を救うため、一豊の使者として信定が派遣されている。
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氏家行広

うじいえ ゆきひろ(1546-1615)
登場回数:1作
別名:荻野道喜

氏家 行広(うじいえ ゆきひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。氏家氏14代当主。
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慈円

じえん(1155-1225)
登場回数:2作

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。
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