偉人

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新島とみ

にじいま とみ(1807-1896)
登場回数:1作

新島 とみ(にじいま とみ 1807年10月10日〈文化4年9月9日〉 - 1896年〈明治29年〉1月7日)は、武蔵国浦和宿(現:埼玉県さいたま市浦和区)出身の人物。同志社大学創設者、新島襄の母。旧姓田中とみ。新島登美と表記される場合もある。
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森長氏

もり ながうじ(1567-1582)
登場回数:1作
別名:森力丸

森 長氏(もり ながうじ、永禄10年(1567年) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、織田信長の小姓の一人。 森可成の五男で、森長可、森長定(乱、蘭丸)、森長隆(坊丸)らの弟。幼名の力丸(りきまる)の名で知られる。
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真田信綱

さなだ のぶつな(1537-1575)
登場回数:1作
別名:源太郎

真田 信綱(さなだ のぶつな)は、戦国時代の武将。武田信玄、勝頼の2代に仕える。幼名は源太郎。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。
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神尾春央

かんお はるひで(1687-1753)
登場回数:1作

神尾 春央(かんお はるひで、貞享4年(1687年) - 宝暦3年5月5日(1753年6月6日))は、江戸時代の旗本。官位は若狭守。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった。
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諏訪御料人

すわごりょうにん(1530-1555)
登場回数:3作

諏訪御料人(すわごりょうにん、享禄2年(1530年)? - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘(太方様)。諏訪御「寮」人とも表記される。異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王(千代宮丸)がいる。実名が不詳で、史料上においては諏訪御料人(御寮人)・諏訪御前(いずれも貴人の女性を指す尊敬語)と記されている。
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水野忠元

みずの ただもと(1576-1620)
登場回数:1作

水野 忠元(みずの ただもと、天正4年(1576年) - 元和6年10月6日(1620年10月31日))は、江戸時代初期の大名。下総山川藩の初代当主。忠元系水野家初代。水野忠守の三男。正室は三浦為春(紀州徳川家家臣)の娘。子は水野忠善(長男)、水野忠久(次男)、娘(有馬豊長正室)、娘(水野重良正室)、娘(佐野政信室)。従五位下、大監物。 2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる。慶長10年(1605年)叙任し、小姓組番頭に就任。同時期の小姓組番頭は他に五名おり、それぞれ、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、大久保教隆、成瀬正武。 大坂冬の陣、大坂夏の陣に参戦し、元和元年(1615年)に西丸書院番頭に転じる。同年、下総国・下野国・近江国において3万5000石の領地を与えられ、大名に列する(山川藩)。元和6年(1620年)死去。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。 なお、水野家(唐津・浜松藩)では、初代忠元が諸侯に列したことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が山川(茨城県結城市)につくられている。
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杉山松助

すぎやま まつすけ(1838-1864)
登場回数:1作

杉山 松助(すぎやま まつすけ)は、幕末の長州藩士。諱は律義(のりよし)。名は松介とも。
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瀬名信輝

せな のぶてる(1544-1572)
登場回数:1作

瀬名 信輝(せな のぶてる)は、戦国時代の武将。今川氏の一族である。
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正親町天皇

おおぎまちてんのう(1517-1593)
登場回数:1作
別名:方仁/正親町上皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517年6月18日〈永正14年5月29日〉 - 1593年2月6日〈文禄2年1月5日〉)は、日本の第106代天皇(在位:1557年11月17日〈弘治3年10月27日〉 - 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉)。諱は方仁(みちひと)。
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清浄院

せいじょういん(1582-1656)
登場回数:1作

清浄院(せいじょういん、しょうじょういん、正字:清淨院、天正10年(1582年) - 明暦2年9月17日(1656年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。加藤清正の継室。水野忠重の娘。名はかな。
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