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祇園女御

ぎおんのにょうご(?-?)
登場回数:2作

祇園女御(ぎおんのにょうご、生没年未詳)は、白河法皇の晩年の寵妃。
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吉川興経

きっかわ おきつね(1518-1550)
登場回数:1作

吉川 興経(きっかわ おきつね)は、戦国時代の武将。安芸国国人・吉川氏14代(藤姓吉川氏としては最後の)当主。「興」の字は大内義興より偏諱を受けたものである。
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吉田松陰

よしだ しょういん(1830-1859)
登場回数:6作

吉田 松陰(よしだ しょういん、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。
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久松俊勝

ひさまつ としかつ(1526-1587)
登場回数:2作
別名:久松長家

久松 俊勝(ひさまつ としかつ)は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の坂部城(阿久比城:愛知県阿久比町卯坂)主。初名は定俊及び長家(ながいえ)。徳川家康の生母・伝通院の再婚相手として知られる。本姓は菅原氏。佐渡守を称した。実父は久松定義とされている(『藩翰譜』1巻320項など)。『東照宮御実紀』巻二には、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝とある。
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朽木元綱

くつき もとつな(1549-1632)
登場回数:1作
別名:竹若丸

朽木 元綱(くつき もとつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、寄合旗本。父は朽木晴綱、母は飛鳥井雅綱の娘。子に宣綱、友綱、稙綱、娘(堀直政室)。
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橋本経子

はしもと つねこ(1826-1865)
登場回数:2作
別名:観行院

橋本 経子(はしもと つねこ 、文政9年11月26日(1826年12月24日) - 慶応元年8月9日(1865年9月28日))は、幕末期の日本の女官。第120代仁孝天皇の后妃のひとりであり、和宮親子内親王の生母である。官職は典侍(新典侍)。幼名おすめ、落飾後は観行院(かんぎょういん)と号した。 12代将軍・徳川家慶時代の大奥で絶大な権勢を振るった上臈御年寄姉小路、水戸藩老女花野井は、経子の叔母である。
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近衛基実

このえ もとざね(1143-1166)
登場回数:1作

近衞 基実(このえ もとざね)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。
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近藤ふで

こんどう ふで(?-?)
登場回数:1作

近藤 ふで(こんどう ふで、生没年不明)は、幕末期の女性。天然理心流3代目近藤周助の9番目の妻にして、4代目近藤勇(新選組局長)の義母。名は主に筆と表記。 江戸牛込近辺の芸者出身と伝わる。 養子・勇に対して酷く虐待を加え、そのせいか病気にかかった勇が、治療を受けるためにいったん上石原村に帰されたこともあったと言う。 勇の結婚に関しても、「このような醜婦でなければ迎える嫁もないのかと噂されては近藤家の名に関わる」として反対していた。 天然理心流4代目を近藤勇が襲名すると、夫・周斎より先に隠居先である四谷舟板横町の寓居に移り住む。 周斎の没後、消息不明。
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金森長近

かなもり ながちか(1524-1608)
登場回数:1作
別名:金森可近

金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。正四位下、兵部卿、飛騨守。
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九条良経

くじょう よしつね(1169-1206)
登場回数:1作

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。関白・九条兼実の次男。官位は従一位・摂政、太政大臣。九条家2代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。
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