偉人

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上野家成

うえの いえなり(?-?)
登場回数:1作

上野 家成(うえの いえなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。越後国の国人。魚沼郡妻有郷の節黒城主。
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織田秀敏

おだ ひでとし(?-1560)
登場回数:1作

織田 秀敏(おだ ひでとし)は、戦国時代の武将。名は信平とも。通称は七郎。官職は玄蕃允、玄蕃頭(確認されているのは玄蕃允のみ)。滝川一益の娘婿・津田秀政の祖父にあたる。
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織田信友

おだ のぶとも(?-1555)
登場回数:3作

織田 信友(おだ のぶとも)は戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。大和守として知られる織田達勝の後継者である。実父は織田達広(たつひろ、又はみちひろ、織田因幡守)とされるが不明。一説に伯父とされる織田敏定が養父になったという(『寛政重修諸家譜』)。諱は広信(ひろのぶ、初名か)、また信豊(のぶとよ)とも。通称は彦五郎。尾張清洲城城主。
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新島八重

にいじま やえ〈やゑ〉(1845-1932)
登場回数:1作

新島 八重(にいじま やえ〈やゑ〉、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本の教育者、茶道家。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島 八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物。
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森長隆

もりなが たかし(1566-1582)
登場回数:2作
別名:森坊丸

森 長隆(もり ながたか、永禄9年(1566年) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、織田信長の小姓の一人。森可成の四男で、森長可、森成利(森乱、森蘭丸)らの弟。森長氏(力丸)らの兄に当たる。幼名・通称は坊丸(ぼうまる)。
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真田信就

さなだ のぶなり(?-1695)
登場回数:1作

真田 信就(さなだ のぶなり)は、江戸時代中期の旗本。松代藩の第2代藩主・真田信政の長男。真田勘解由家の祖。母の小野図子(宗鑑尼)は信政の側室であり、小野お通の娘である。 慶安元年(1648年)6月20日に将軍徳川家光に拝謁する。その後、事情により勘気をこうむるが、寛文5年(1665年)7月17日にそれを許され、同年12月25日に廩米2000俵を賜って寄合に列する。元禄7年(1694年)7月10日に致仕し、家督を子の信方(真田勘解由)に譲った。元禄8年(1695年)11月26日死去。 母は八橋検校から武家の子女のしつけとして、八橋流の箏曲を習得し、真田勘解由家に相伝された。
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神保修理

じんぼ しゅり(1834-1868)
登場回数:2作

神保 修理(じんぼ しゅり、天保5年(1834年)- 慶応4年2月22日(1868年3月15日))は、江戸時代末期(幕末期)の武士。会津藩の軍事奉行添役。神保内蔵助の長男。実弟に母方の家を継いだ北原雅長(初代長崎市長。『七年史』著者)がいる。妻は会津藩士・井上丘隅の次女・雪子。修理は通称。初名は直登、諱は長輝(ながてる)という。以下本文中では「長輝」に統一する。
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諏訪盛重

すわ もりしげ(?-?)
登場回数:1作

諏訪 盛重(すわ もりしげ)は、鎌倉時代中期の武士、諏訪社諏訪大社大祝職・北条氏得宗被官である御内人。嘉禎2年(1236年)以降に出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。
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水野忠重

みずの ただしげ(1541-1600)
登場回数:2作

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。水野氏当主。三河刈谷城(刈屋城)および緒川城主、後に伊勢神戸城主。実姉・於大の方は徳川家康の生母で、家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。
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杉山杉風

すぎやま さんぷう(1647-1732)
登場回数:1作

杉山 杉風(すぎやま さんぷう、正保4年(1647年) - 享保17年6月13日(1732年8月3日))は、江戸時代前期から中期の俳人。蕉門十哲の一人。通称は市兵衛、または藤左衛門。名は元雅。別号は採荼庵、荼庵、荼舎、蓑翁、蓑杖、五雲亭、存耕庵。隠居して一元。
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