偉人

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松平頼雄

まつだいら よりかつ(1668-1718)
登場回数:1作

松平 頼雄(まつだいら よりかつ)は、江戸時代前期から中期にかけての伊予国西条藩の世嗣。官位は従四位下・侍従、山城守。実父により無実の罪によって廃嫡され、非業の最期を遂げたとされる。
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上杉謙信

うえすぎ けんしん(1530-1578)
登場回数:5作
別名:長尾虎千代/長尾景虎/上杉政虎

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵した。戦国時代でも戦上手とされ、その戦績から後世、軍神や、「越後の龍」 などと称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎。関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、安定と繁栄をもたらした。戦った戦国大名・武将は数多く、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に、武田信玄との5回にわたる川中島の戦いが知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大したが、49歳で死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、他国から救援を要請される形での遠征が多く、江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥しない「義の武将」という印象が強い。一方で、現代では史料の発掘・分析などが進み、利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い。
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上野清信

うえの きよのぶ(?-?)
登場回数:2作

上野 清信(うえの きよのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。室町幕府の幕臣である備中国鬼邑山城主・上野信孝の子。 上野氏は河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。
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織田勝長

おだ かつなが(?-1582)
登場回数:1作
別名:津田源三郎

織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。織田信長の五男(もしくは四男)。幼名は御坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。法名は林庭宗松。
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織田信雄

おだ のぶかつ(1558-1630)
登場回数:12作
別名:茶筅丸/北畠具豊

織田 信雄(おだ のぶかつ、のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。 諱の読みには「のぶかつ」と「のぶお(のぶを)」の2つの説がある。信雄から「雄」の偏諱を与えられた家臣は、いずれも「かつ」と呼ばれ「のぶかつ」が一般的呼び名とされる。一方で息子の秀雄、高雄、良雄、長雄は「お」と読む。
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新島民治

にいじま たみじ(1807-1887)
登場回数:1作

新島 民治(にいじま たみじ、1807年3月22日〈文化4年2月14日〉 - 1887年〈明治20年〉1月30日)は、日本の武士(安中藩士)。新島襄の実父。字は敬徳、のちに公勤で、通称は金吉、弁喜、民治。号は崋山である。 文化4年(1807年)に上野国吾妻郡郷原村(現群馬県吾妻郡東吾妻町)に生まれた。 文政元年(1818年)、父・新島弁治が江戸藩邸に詰めることになったのに従い江戸に移る。天保2年(1831年)4月に浦和宿出身の中田とみと結婚する。天保14年(1843年)に長男・七五三太(後の新島襄)が生まれる。その頃、民治は江戸祐筆見習いであった。嘉永6年(1853年)には中小姓格、文久元年(1861年)には中小姓になる。明治維新後の明治2年(1869年)4月に安中に移った。 明治3年(1870年)8月10日に父・弁治が死去すると家督を継いだが、11月には隠居し、次男の双六に家督を譲った。 明治10年(1877年)4月に襄が住んでいた京都新烏丸頭町に身を寄せた。同年3月4日に洗礼を受けて西京第二公会に入会した。 明治20年(1887年)に死去した。
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森繁久彌

もりしげ ひさや(1913-2009)
登場回数:1作

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年(大正2年)5月4日 - 2009年(平成21年)11月10日)は、日本の俳優、声優、歌手、コメディアン(喜劇俳優)、元NHKアナウンサー。最晩年はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。身長168cm。血液型はB型。 昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた。『知床旅情』の作詞・作曲者であり、歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場している。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多い。先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られる。慈善事業にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。 受賞も数多く、紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、枚方市名誉市民、国民栄誉賞、従三位などのほか、1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章した。
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真田信政

さなだ のぶまさ(1597-1658)
登場回数:1作

真田 信政(さなだ のぶまさ)は、江戸時代前期の大名。信濃松代藩の第2代藩主。初代藩主・真田信之の次男。真田昌幸の孫、真田信繁の甥にあたる。
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神保雪子

じんぼ ゆきこ(1845-1868)
登場回数:1作

神保 雪子(じんぼ ゆきこ、弘化2年(1845年) - 慶応4年8月25日(1868年10月10日))は江戸時代末期(幕末)の女性。会津藩士・井上丘隅の次女、神保修理の妻。
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諏訪忠誠

すわ ただまさ(1821-1898)
登場回数:1作

諏訪 忠誠(すわ ただまさ)は、江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主。
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