偉人

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東久世通禧

ひがしくぜ みちとみ(1834-1912)
登場回数:4作

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。茶人。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。
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藤掛永勝

ふじかけ ながかつ(1557-1617)
登場回数:1作

藤掛 永勝(ふじかけ ながかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、丹波国の小大名。江戸時代初期の旗本。 系図によって藤掛と藤懸が混在するが、『寛政重修諸家譜』によれば、姓は藤懸の字が正しい。
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藤原経宗

ふじわら の つねむね(1119-1189)
登場回数:3作

藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男(あるいは五男)。官位は従一位・左大臣・左大将。
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藤原秀郷

ふじわら の ひでさと(891-958)
登場回数:1作

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。別名俵(田原)藤太。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
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藤原忠雅

ふじわら の ただまさ(1124-1193)
登場回数:1作

藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。花山院家3代。
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藤原邦綱

ふじわら の くにつな(1122-1181)
登場回数:1作

藤原 邦綱(ふじわら の くにつな)は、平安時代後期の公卿。右馬権助・藤原盛国の子。官位は正二位・権大納言。五条大納言と号す。
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藤堂高久

とうどう たかひさ(1638-1703)
登場回数:1作

藤堂 高久(とうどう たかひさ)は、伊勢津藩の第3代藩主。藤堂家宗家3代。
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徳川家綱

とくがわ いえつな(1641-1680)
登場回数:2作

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代征夷大将軍(在職:1651年 - 1680年)。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。
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徳川光貞

とくがわ みつさだ(1627-1705)
登場回数:3作

徳川 光貞(とくがわ みつさだ)は、紀州藩の第2代藩主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の実父である。 3代将軍徳川家光や、他の徳川御三家の第2代当主(尾張藩主徳川光友・水戸藩主徳川光圀)と従兄弟の関係にある。
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徳川昭武

とくがわ あきたけ(1853-1910)
登場回数:3作
別名:清水昭武/松平昭徳/余八麻呂

徳川 昭武(とくがわ あきたけ、1853年〈嘉永6年〉10月26日 - 1910年〈明治43年〉7月3日)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。
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