偉人

偉人

藤原頼通

ふじわら の よりみち(992-1074)
登場回数:1作

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇、後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇、平忠常の乱、前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。それに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士が台頭する時代へと移ることになる。
偉人

洞院実泰

とういん さねやす(1269-1327)
登場回数:1作

洞院 実泰(とういん さねやす)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・洞院公守の長男。官位は従一位・左大臣。洞院左大臣または後山本左府と号す。
偉人

徳川義直

とくがわ よしなお(1601-1650)
登場回数:5作

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。尾張藩の初代藩主。尾張徳川家の祖。新陰流第四世。
スポンサーリンク
偉人

徳川宗翰

とくがわ むねもと(1728-1766)
登場回数:1作

徳川 宗翰(とくがわ むねもと)は、常陸国水戸藩の第5代藩主。三島由紀夫は昆孫である。
偉人

徳川頼職

とくがわ よりもと(1680-1705)
登場回数:1作

徳川 頼職(とくがわ よりもと)は、紀州藩の第4代藩主。
偉人

内山彦次郎

うちやま ひこじろう(1797-1864)
登場回数:1作

内山 彦次郎(うちやま ひこじろう)は、江戸時代後期の大坂西町奉行組与力。最終的には与力の最上位の役である諸御用調役を務め、また遠国奉行組与力としては異例の譜代御家人に取り立てられた。諱は之昌(ゆきまさ)。菩提寺は寒山寺(大阪市から現在地の箕面市に移転)。
偉人

鍋島勝茂

なべしま かつしげ(1580-1657)
登場回数:1作

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前佐賀藩主。
偉人

楠木正行

くすのき まさつら(?-1348)
登場回数:1作

楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。南朝左衛門尉・河内守・河内国守護・帯刀舎人。贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。 生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)から史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国(大阪府東部)を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという岡野友彦の新説がある。いずれにせよ、興国5年/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7年/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という説もある左大臣近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。 正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(「人智を超越した事象である」)と畏怖された。岡野によれば、親房が幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にも関わらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦だったのではないかという。また、藤田精一・生駒孝臣は、正行の戦闘経路が、元弘の乱(1331年 - 1333年)での父のそれをほぼ踏襲していることを指摘する。藤田によれば、初陣での紀伊国(和歌山県)攻略は父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略であるという。生駒は、正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたであろうと推測する。正行は同年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てに完勝した。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させた。 しかし、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。この戦いは、『太平記』では開戦前から討死を前提とした玉砕だったと物語られ、悲壮に描かれた。だが、『太平記』の玉砕説は複数の研究者から疑問視されており、特に生駒は、それまで不敗であることや、同族の武将の書簡などを見る限り、歴史上の正行はこの戦いでも勝利を確信して開戦したのではないかとしている。楠木兄弟の戦死と直後の吉野行宮陥落により、師直と直義との間の政治権力の均衡が崩れ、室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱(1350年 - 1352年)が発生することになった。 史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。一方、軍記物語『太平記』(1370年頃完成)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救ったという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また、明治時代には明治天皇から追悼の勅語を受け、従二位を追贈されて、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となった。
偉人

二条天皇

にじょうてんのう(1143-1165)
登場回数:1作
別名:守仁/二条上皇

二条天皇(にじょうてんのう、1143年7月31日〈康治2年6月18日〉- 1165年9月5日〈永万元年7月28日〉)は、日本の第78代天皇(在位: 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉- 1165年8月3日〈永万元年6月25日〉)。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。
偉人

日比野六大夫

ひびの ろくだゆう(?-?)
登場回数:1作

日比野 六大夫(ひびの ろくだゆう)は、戦国時代の武将。羽柴秀吉の家臣。日比野六大夫館主。
スポンサーリンク