偉人

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野中重政

のなか しげまさ(?-?)
登場回数:1作

野中 重政 (のなか しげまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。 天正7年8月29日(1579年)、家康の命を受けた重政らは遠江国小藪村において築山殿を暗殺する。その後、重政は城を出て故郷の遠江国堀口村に隠棲したと伝えられる。 後に野中家では聾唖の娘が二人も生まれる等、家族に不幸があったため、享保8年(1723年)、重政の子孫で水戸藩士の野中重羽は築山殿の廟前に石灯籠を寄進し、慰霊に努めた。この石灯籠は今も築山殿の墓前に残っている。
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柳生三厳

やぎゅう みつよし(1607-1650)
登場回数:2作
別名:柳生十兵衛

柳生 三厳(やぎゅう みつよし)は、江戸時代前期の武士、剣豪、旗本。初名は七郎、諱は三厳。通称の十兵衞(じゅうべえ)または「柳生十兵衛三厳」として知られる。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。始め徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)の発展に努めるが、家督を継いで程なく急死した。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。著書に『月之抄』、『武蔵野』など。
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有栖川宮熾仁親王

ありすがわのみや たるひとしんのう(1835-1895)
登場回数:3作

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。 有栖川宮幟仁親王の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。 明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。
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与祢

よね(1580-1586)
登場回数:1作

与祢(よね、天正8年(1580年) - 天正13年11月29日(1586年1月18日))は、安土桃山時代の女性。山内一豊の長女にして、唯一の実子。義弟(与祢から見れば実の従弟)に一豊の養子となった土佐藩2代藩主山内忠義がいる。
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立花忠茂

たちばな ただしげ(1612-1675)
登場回数:1作

立花 忠茂(たちばな ただしげ)は、江戸時代前期の大名。筑後柳河藩の第2代藩主。立花直次の4男で、立花宗茂の甥で養嗣子。初名は貞之で、諱は忠之、忠貞、忠茂。剃髪して好雪と号す。
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林通顕

はやし みちあき(1831-1896)
登場回数:1作

林 通顕(はやし みちあき)は、江戸時代後期の宇和島藩士。明治政府初期の官吏。通称は玖十郎、後に改名し得能亜斯登(とくのう あすと)と名乗る。
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鈴木重棟

すずき しげむね(1839-1868)
登場回数:1作

鈴木 重棟(すずき しげむね) は、江戸時代末期の水戸藩家老職。 鈴木重好を祖とする鈴木石見守家は代々従五位下に叙されて石見守を名乗り、水戸藩の家老・城代を務めた名家であった。門閥派諸生党の中でも最も禄高が高く、名目上諸生党の領袖とされた。 安政5年(1858年)大番頭、五十人扶持・500石。翌6年(1859年)、父重矩の隠居により家督を相続。禄高4500石。万延元年(1860年)には家老、城代となり、従五位下に叙されて石見守を称した。 元治元年(1864年)、水戸藩内の尊王攘夷派の激派により天狗党の乱が起こる。門閥派である諸生党は幕府の後援を得てこの鎮圧にあたり、市川三左衛門らとともに藩政の実権を掌握した。翌元治2年(1865年)3月、加増されて7000石。さらに家格は1万石とされた。 しかし、慶応4年(1868年)、明治維新により諸生党と尊攘派天狗党の立場は逆転する。天狗党の生き残りが水戸入りするにさきがけて3月10日水戸を脱し、諸生党の主要勢とは別れ、江戸に潜伏したが捕えられた。4月23日、斬罪に処された。享年30。 幼少の二人の息子も斬罪となった。8歳の長男・銛太郎は従容として刑に処されたが、次男・甚次郎は菓子を手に、兄と同じ目になるのは嫌だと泣きながら斬られたという。隠居していた父の重矩は、捕えられた後に食を絶ち獄死した。
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和田義直

わだ よしなお(1177-1213)
登場回数:2作

和田 義直(わだ よしなお)は、鎌倉時代初期の武将。
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檜皮姫

ひわだひめ(1230-1247)
登場回数:1作

檜皮姫(ひわだひめ)は、鎌倉時代中期の北条一門の女性。北条時氏の娘で、母は松下禅尼。鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣の正室。第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の妹にあたる。
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槇村正直

まきむら まさなお(1834-1896)
登場回数:2作

槇村 正直(まきむら まさなお、天保5年5月23日(1834年6月29日) - 明治29年(1896年)4月21日)は、日本の官僚、政治家。貴族院議員、男爵。幼名・半九郎。
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