偉人

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二条道平

にじょう みちひら(1287-1335)
登場回数:1作

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。母は京極為顕の娘・宣子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。
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日野輝資

ひの てるすけ(1555-1623)
登場回数:1作

日野 輝資(ひの てるすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての公家。日野 唯心(ひの ゆいしん)とも。日野家28代当主。官位は正二位・権大納言。 藤原北家日野家庶流広橋家の出身で、権大納言・広橋国光の子。初名は広橋 兼保(ひろはし かねやす)または兼潔(かねきよ)といったが、後に本家筋の日野家を継いだ。
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禰津御寮人

ねづごりょうにん(1527-?)
登場回数:1作

禰津御寮人(ねづごりょうにん、大永7年(1527年)? - ?)は、戦国時代の女性。甲斐武田氏の当主武田晴信(信玄)の側室。信濃国小県郡(現長野県東御市祢津)の国衆である禰津元直の娘。出子に武田信清がいる。 武田晴信は天文11年(1542年)に家督を相続し、同年には信濃諏訪氏を征服し信濃侵攻を本格化させる。晴信には天文5年に輿入れした正室三条夫人のほか、側室として天文11年末に輿入れした信濃諏訪氏の娘(諏訪御料人)のほか、武田一族の油川氏の娘(油川夫人)がいる。 祢津氏は天文12年(1543年)に武田方に帰属しており、『高白斎記』に拠れば「天文12年12月15日条に禰津より息女が晴信に入嫁した」としている。これを禰津御寮人の入嫁記事とする説もあるが、禰津御寮人の出子は永禄3年(1560年)出生の信清が確認されるため、これは諏訪御料人を指すものと考えられている。 その後の動向は不明であるが、信清は僧籍に入り、武田家滅亡の後、異母姉・菊姫が上杉景勝の正室となっていた縁を頼り、上杉家に仕えることになる。
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梅嶺院

ばいれいいん(1643-1704)
登場回数:1作
別名:上杉富子

梅嶺院(ばいれいいん、寛永20年6月11日(1643年7月26日) - 宝永元年8月8日(1704年9月20日))は、江戸時代中期の女性。高家・吉良義央の正室。俗名は上杉富子。
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畠山国清

はたけやま くにきよ(?-1362)
登場回数:1作

畠山 国清(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。
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板垣信方

いたがき のぶかた(1489-1548)
登場回数:3作

板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。板垣退助の先祖に当たる。 武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり初戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。
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比企朝宗

ひき ともむね(?-?)
登場回数:1作

比企 朝宗(ひき ともむね、生没年不詳)平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。比企藤内朝宗とも。源頼朝の乳母である比企尼に連なる比企氏の一族。内舎人に任ず。 比企氏の系図上は比企遠宗と比企尼の実子。妻(妾)に北条政子の官女・越後局(文治4年1月22日、男児出産記録あり)。娘に北条義時の室となった姫の前がいる。
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俵屋宗達

たわらや そうたつ(?-?)
登場回数:1作

俵屋 宗達(たわらや そうたつ)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」など。
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武市富子

たけち とみこ(1830-1917)
登場回数:2作

武市 富子(たけち とみこ、文政13年5月18日(1830年7月8日) - 大正6年(1917年)4月23日)は、幕末の志士・武市瑞山の妻。高知藩郷士・島村雅風(源次郎)の長女。ロシア正教日本人初の司祭の沢辺琢磨は従弟。
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武田信廉

たけだ のぶかど(1532-1582)
登場回数:3作

武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の五男。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。
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