偉人

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相良武任

さがら たけとう(1498-1551)
登場回数:1作

相良 武任(さがら たけとう)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。
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足利義昭

あしかが よしあき(1537-1597)
登場回数:15作
別名:覚慶

足利 義昭(あしかが よしあき、1537年12月15日〈天文6年11月13日〉‐ 1597年10月9日〈慶長2年8月28日〉)は、室町幕府第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。 父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
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尊良親王

たかよししんのう(?-1337)
登場回数:1作

尊良親王(たかよししんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。一品中務卿親王(いっぽんなかつかさきょうしんのう)とも呼ばれる。後醍醐天皇第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。瓊子内親王および征夷大将軍宗良親王の同母兄。 嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれる。しかし持明院統との政争に敗北し、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)だった。その後は後醍醐後継者の地位こそ、高貴な生母を持ちより政治的資質のある異母弟の世良親王に移るものの、引き継ぎ後醍醐朝の有力政治家として信任され、元徳3年(1331年)1月には一品親王に叙された。 元弘の乱(1331年 - 1333年)では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。さらに、足利尊氏との戦い建武の乱(1335年 - 1337年)では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。父の降伏後も越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けるが、金ヶ崎の戦いで高師泰・足利高経(斯波高経)に敗北し、新田義顕(義貞の子)と共に落命。 和歌の正統御子左家二条派の血を母方に引くだけあって歌に優れ、勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に1首・准勅撰和歌集『新葉和歌集』に44首が入集。家集は『一宮百首』(元徳3年(1331年))。明治時代、恒良親王と共に金崎宮(福井県敦賀市)の主祭神となった。 軍記物語『太平記』では、妻の御匣殿との恋愛譚が描かれ、幸若舞『新曲』などの派生作品が作られた。
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多田帯刀

ただ たてわき(1831-1863)
登場回数:1作

多田 帯刀(ただ たてわき、天保2年5月26日(1831年7月5日) - 文久2年11月16日(1863年1月5日))は江戸時代末期(幕末)の金閣寺の寺侍。 母は村山たか(可寿江)。父は金閣寺の住職・北澗承学で、後に代官の多田源左衛門(一郎)の養子となる。通称は常太郎。 母・たか(可寿江)が長野主膳の妾となると、帯刀もそれに従う。安政の大獄において、主膳の密命を受け、母と共に勤王派の公家や志士たちの動向を探り、それを幕府に伝えた。そのため、勤王の志士たちに母と共に狙われた。文久2年(1862年)11月14日の夜、たかが楢崎八十槌・小畑孫三郎・河野万寿弥・依岡権吉・千屋寅之助らの土佐藩士・長州藩士20名ほどに捕縛され、生き晒しにされた。 同時に帯刀も潜伏先を襲撃されたが不在であったため、志士が家主に「明日の晩に三条大橋の所まで連れてこい。連れてこなければお前の命は無いものと覚悟せよ」と脅すと、家主はそれに従い、翌15日夜に帯刀を三條大橋まで連れてきた。 志士たちは幕吏の目を恐れ、また御所の近くで血を流すのは恐れ多いとして、帯刀を蹴上(粟田口刑場)まで連れて行き、安政の大獄のことを詰問すると、恐れをなして逐一白状した。そのため斬り捨てではなく手拭いで目隠しをされ、小畑孫三郎が斬首にあたった。しかし小畑は一刀で首を刎ねられず、いったんは観念した多田が狼狽して大いに暴れたため、数人がかりで押さえつけ、別の志士により首がねじ切られた。その後、髷を木の枝に結び付けられ、梟首された。また、その近辺に「島田左兵衛・加納繁三郎・長野主膳らと奸計を働かせ、安政の大獄の際に志士の書状を渡辺金三郎(京都町奉行所与力)に渡るようにし、志士たちを捕縛させた」などの罪状を述べた斬奸状が立てられた。 戒名は宗心院因応縁了居士。墓所は京都市左京区の金福寺にある。
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大横田勉

おおよこた つとむ(1913-1970)
登場回数:1作

大横田 勉(おおよこた つとむ、1913年(大正2年)4月20日 - 1970年(昭和45年))は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック400メートル自由形で銅メダルを獲得。明治大学出身。
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大久保忠佐

おおくぼ ただすけ(1537-1613)
登場回数:1作
別名:道喜

大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。駿河国沼津藩主。蟹江七本槍・徳川十六神将の一人に数えられる。
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大橋掃部

おおはし かもん(?-1600)
登場回数:1作

大橋 掃部(おおはし かもん、? - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、石田三成の家臣。 槍の名手であったとされる。関ヶ原の戦いでは主君の三成に従い出陣した。小早川秀秋の裏切りにより西軍が混乱している中で黒田長政の家臣・後藤基次と一騎討ちとなったが、最後は討ち取られ戦死した。
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大森兵蔵

おおもり ひょうぞう(1876-1913)
登場回数:1作

大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年3月14日 - 1913年1月13日)は、YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。日本初のオリンピックチーム監督。
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大村益次郎

おおむら ますじろう(1824-1869)
登場回数:5作
別名:村田蔵六

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐となり勝利の立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。
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大内義尊

おおうち よしたか(1545-1551)
登場回数:1作

大内 義尊(おおうち よしたか)は、戦国時代の人物。大内義隆の嫡子。母はおさいの方(小槻伊治の娘)。弟に大内義教。
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