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片倉重長

かたくら しげなが(1585-1659)
登場回数:1作
別名:片倉重綱

片倉 重長(かたくら しげなが)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。仙台藩伊達家の家臣。 片倉景綱の子。伊達政宗・忠宗・綱宗の3代に仕えた。白石城主。幼名・通称は弥左衛門、左門、左衛門。 通称は片倉家の当主に代々引き継がれた小十郎である。諱ははじめ重綱で、江戸幕府3代将軍徳川家光の嗣子・家綱の諱字を避けて重長と改名した。 妻は針生盛直の娘、後妻は阿梅(真田信繁(幸村)の娘)。子に松前藩初代藩主・松前慶広の八子松前安広の妻・喜佐(針生氏の子)。男子がなかったため、松前安広と喜佐の子の外孫景長を養子とした。
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蜂須賀正元

はちすか まさもと(1545-1571)
登場回数:1作

蜂須賀 正元(はちすか まさもと、天文14年(1545年) - 元亀2年(1571年))は、戦国時代の武将。蜂須賀正利の四男。兄に正勝がいる。通称は七内。
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坊城俊克

ぼうじょう としかつ(1802-1865)
登場回数:1作

坊城 俊克(ぼうじょう としかつ)は、江戸時代後期の公卿。坊城俊親の子。坊城俊明の養子。官位は従一位・大納言。
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北条幻庵

ほうじょう ながつな(1493-1589)
登場回数:1作

北条 幻庵(ほうじょう げんあん)は、戦国大名・後北条氏の一門衆。法号・長綱(ちょうこう)のち宗哲(そうてつ)。初代・北条早雲の末子、2代・北条氏綱の弟として生れる。幼名・菊寿丸。幼くして僧籍に入り、のち箱根権現社別当となる。早雲から箱根や久野の広大な所領を相続。甥にあたる玉縄城主・北条為昌の死後、三浦衆と小机衆も統率した。久野に屋敷を構え、後北条氏5代にわたって仕え、家中で大きな影響力を持っていた。自身は長寿だったことで知られるが、跡継ぎ4人に先立たれた不幸な人としても知られる。鞍作り・石台作りなどの技芸や和歌・連歌などの芸事に通じた。後に箱根の金剛王院の衆僧の高師となり、権化の再来といわれたと三浦浄心『北条五代記』に伝わる。
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北条時輔

ほうじょう ときすけ(1248-1272)
登場回数:1作

北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。
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北条長時

ほうじょう ながとき(1230-1264)
登場回数:1作

北条 長時(ほうじょう ながとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日〈1256年12月10日〉 - 文永元年〈1264年〉)である。居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。
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牧野安

まきの やす(1669-1689)
登場回数:1作

牧野 安(まきの やす、寛文9年(1669年) - 元禄2年9月3日(1689年10月15日))は、下総国関宿藩の嫡子・牧野成時の正室。異母弟に牧野貞通。
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堀直寄

ほり なおより(1577-1639)
登場回数:1作

堀 直寄(ほり なおより)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。越後坂戸藩、信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主。堀直政の次男(または三男)。兄に直清、弟に直之、直重ら。正室は長沢松平家出身の松平近清の娘。子に直次、直時、娘(池田長常正室)、娘(岡部行隆正室)。官位は従五位下、丹後守。
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本間近江守

ほんま おうみのかみ(?-1546)
登場回数:1作

本間 近江守(ほんま おうみのかみ、生年不詳 - 天文15年4月20日(1546年5月19日))は、戦国時代の武将、山内上杉氏の家臣。 上杉憲政の家臣だったが、禁制の出ていた鹿狩りを行ったために出奔。その際に長野業正らに後北条氏への間者の命を受けたという。北条氏康に仕えたが、間もなく上杉氏に帰参する。天文15年、河越城の戦いに出陣するが、北条勢の急襲に遭い、憲政を逃がす事に成功するが自身は討死した。
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本多忠高

ほんだ ただたか(1526-1549)
登場回数:1作

本多 忠高(ほんだ ただたか)は、戦国時代の三河国の武将。松平氏の家臣。子に本多忠勝。
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