偉人

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細川持之

ほそかわ もちゆき(1400-1442)
登場回数:1作

細川 持之(ほそかわ もちゆき)は、室町時代の武将・守護大名。室町幕府14代管領。摂津国・丹波国・讃岐国・土佐国守護。細川京兆家10代当主。
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坂上田村麻呂

さかのうえ の たむらまろ(758-811)
登場回数:1作

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。 姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。 官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。 薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。 坂家宝剣では坂家。
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桜山茲俊

さくらやま これとし(?-1332)
登場回数:1作

桜山 茲俊(さくらやま これとし、生年不詳 - 元弘2年1月21日(1332年2月17日))は、鎌倉時代末期、備後国の武将。通称は四郎。元弘の乱の際、楠木正成の挙兵に呼応する形で備後国一ノ宮にて挙兵した。一時は破竹の勢いを示すも、笠置山の戦いにおける官軍敗戦の報に部下は四散。吉備津宮に放火し、妻子を殺害した後一族郎党と共に自刃した。
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三間正弘

みつま まさひろ(1836-1899)
登場回数:1作

三間 正弘(みつま まさひろ、1836年(天保7年7月) - 1899年(明治32年)6月3日)は、日本の警察官、陸軍軍人、政治家。最終階級は少警視、陸軍大佐。石川県知事。通称、市之進。
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三善康信

みよし の やすのぶ(1140-1221)
登場回数:3作

三善 康信(みよし の やすのぶ、保延6年(1140年)- 承久3年8月9日(1221年8月27日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家。三善康光または三善康久の子。鎌倉幕府の初代問注所執事。入道後の法名は善信(ぜんしん)。
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山下幸内

やました こうない(?-?)
登場回数:1作

山下 幸内(やました こうない、生没年不詳)は、江戸時代中期の浪人。 紀州藩の浪人で江戸麻布青山周辺に居住し、謙信流軍学者であると言われているが詳細は不詳。1721年(享保6年)、幸内は目安箱に諫書を投稿したが、これが世に言う山下幸内上書であり、享保の改革を批判した内容である。特に経済政策では、奢侈禁令のみを強制するのは金銀流通を停滞させ、市民救済する政策ではないと批判し、また8代将軍徳川吉宗が紀州藩主時代に施行していた小政策は天下の大局には適用出来ないと決め付けた。 これは当時の政局担当者の関心を集め、町奉行・寺社奉行・勘定奉行のいわゆる三奉行は上書を書写保存をした。 また、寛政改革の際、老中松平定信は、上書を諸老中に提示し、彼らの意見を求める等大きな影響を与えた。
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山手殿

やまのてどの(1549-1613)
登場回数:1作
別名:京の御前/寒松院

山手殿(山之手殿。やまのてどの、天文18年(1549年)? - 慶長18年6月3日(1613年7月20日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。京の御前、寒松院とも。真田昌幸の正室。真田信之・信繁(幸村)兄弟の母。
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山田藤吉

やまだ とうきち(1848-1867)
登場回数:3作

山田 藤吉(やまだ とうきち、嘉永元年(1848年) - 慶応3年11月16日(1867年12月11日))は、日本の元力士。四股名は雲井龍。坂本龍馬の用心棒でもあった。
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山本光幸

やまもと みつゆき(1486-1578)
登場回数:1作

山本 光幸(やまもと みつゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。甲斐武田氏の足軽大将である山本勘助の近親とされる。
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讃岐局

さぬきのつぼね(?-?)
登場回数:1作

讃岐局(さぬきのつぼね、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の女性。鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の側室。北条時輔の生母。三河局(みかわのつぼね)とも言われる。
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