偉人

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唐橋

からはし(?-?)
登場回数:1作

唐橋(からはし、生没年不詳)は、江戸幕府の大奥女中。のち峰姫付きの上臈。名は種子。正二位権中納言の公卿・高松公祐の長女で、母は滋野井冬泰の娘。
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島津久福

しまづ ひさとみ(1804-1869)
登場回数:1作

島津 久福(しまづ ひさとみ)は、幕末の薩摩藩家老。島津氏の分家・知覧島津家21代当主。家格は一所持で佐多・知覧を所領した。
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島田守政

しまだ もりまさ(1624-1699)
登場回数:1作

島田 守政(しまだ もりまさ)は江戸時代初期の武士(旗本)。江戸町奉行(8代目北町奉行)を務めた。同じく江戸町奉行などを歴任した島田利正の四男。
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湯浅初子

ゆあさ はつこ(1860-1935)
登場回数:1作

湯浅 初子(ゆあさ はつこ、1860年2月14日(安政7年1月23日) - 1935年(昭和10年)3月13日)は、明治時代の社会事業家。 徳富一敬、徳富久子の四女として、肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。母の久子は熊本県益城町の惣庄屋の娘で、姉妹に横井小楠の後妻となったツセ子、小楠の門弟に嫁いだ教育者の竹崎順子、矢嶋楫子がいる。弟の徳富蘇峰、徳冨蘆花と共に熊本洋学校で英学を学び、1877年(明治10年)より海老名みやらと一緒に同志社でも学ぶ。東京に移り、叔母矢嶋楫子の経営する女子学院の教育を助け、廃娼運動に尽力する。 1885年(明治18年)に湯浅治郎と結婚する。婦人矯風運動にも尽力する。子に湯浅八郎・湯浅十郎・湯浅与三らがいる。
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藤原景季

ふじわら の かげすえ(?-1057)
登場回数:1作

藤原 景季(ふじわら の かげすえ)は、平安時代中期の武将。藤原北家利仁流、加賀介・藤原景通の子。兄弟に景清(加藤五)がある。源頼義の家人として知られる。
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藤原師経

ふじわら の もろつね(?-1177)
登場回数:2作

藤原 師経 (ふじわら の もろつね、生年不詳 - 安元3年6月9日(1177年7月6日))は、平安時代後期の人物。藤原師光(西光)の子。
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藤原聖子

ふじわら の せいし(1122-1182)
登場回数:1作

藤原 聖子(ふじわら の せいし/きよこ、1122年〈保安3年〉- 1182年1月10日〈養和元年12月4日〉)は、第75代天皇・崇徳天皇の皇后(中宮)。近衛天皇の養母。女院。院号は皇嘉門院(こうかもんいん)。 摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女、母は北政所従一位・藤原宗子(権大納言・藤原宗通の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女一人である。
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藤原定家

ふじわら の さだいえ(1162-1241)
登場回数:1作

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
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藤原惺窩

ふじわら せいか(1561-1619)
登場回数:1作

藤原 惺窩(ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。
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徳三宝

とく さんぽう(1887-1945)
登場回数:1作

徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 1945年3月10日)は、日本の柔道家。講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。
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