偉人

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後鳥羽天皇

ごとばてんのう(1180-1239)
登場回数:3作
別名:尊成/後鳥羽上皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた(承久の乱)が朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
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公暁

くぎょう(1200-1219)
登場回数:2作
別名:善哉

公暁(くぎょう、こうきょう、こうぎょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(『尊卑分脈』など)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』など)。 母は『吾妻鏡』によれば足助重長(加茂重長)の娘の辻殿、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘。一幡は異母兄または同母兄、栄実は異母弟または異母兄、禅暁は異母弟または同母弟、竹御所は異母妹または同母妹にあたる。幼名は善哉(ぜんざい)。 叔父である第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。
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弘中隆包

ひろなか たかかね(1521-1555)
登場回数:1作

弘中 隆包(ひろなか たかかね)は、戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。大内義興の家臣で評定衆を務めた弘中興勝(おきかつ、弘中興兼(おきかね)とも)の嫡男。正式な諱は「隆包」だが、父の別名の一字により「隆兼」と表記される場合も多い(後者は誤りというよりは別表記として伝わっているものである)。
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荒木又右衛門

あらき またえもん(1599-1638)
登場回数:1作

荒木 又右衛門(あらき またえもん、慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。新陰流の剣豪。大和郡山藩の剣術師範を務める。
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高橋是清

たかはし これきよ(1854-1936)
登場回数:2作

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7/安政元年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、明治から昭和にかけての日本の財政家、日銀総裁、政治家。 立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。近代日本を代表する財政家として知られ、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。
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高杉晋作

たかすぎ しんさく(1839-1867)
登場回数:5作

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉)は、日本の政治家、軍人。幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。
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国司親相

くにし ちかすけ(1842-1864)
登場回数:1作

国司 親相(くにし ちかすけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士。長州藩の家老。国司 信濃(しなの)の名で知られる。
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黒木為楨

くろき ためもと(1844-1923)
登場回数:1作

黒木 為楨(くろき ためもと、天保15年3月16日(1844年5月3日) - 1923年〈大正12年〉2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。
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根井行親

ねのい ゆきちか(?-1184)
登場回数:1作

根井 行親(ねのい ゆきちか)は、平安時代末期の武将。源義仲の家臣で、俗に言う義仲四天王の1人。 行親の生まれた望月氏は滋野氏の庶流。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。 保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。 治承4年(1180年)信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い各地に転戦、養和元年(1181年)9月水津の合戦で平通盛、経正らを破る。 元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠や源義広らと共に300余騎で宇治の防衛に当たったが、2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。この戦いでは先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。 同年1月26日、義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された。 長野県佐久市には、行親の供養塔と伝わる多層塔が現存する。
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佐々木小次郎

ささき こじろう(?-1612)
登場回数:1作

佐々木 小次郎(ささき こじろう、生年不詳 - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期に実在した剣客。剣豪として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前や生年、出生地については不明な点が多い。 宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
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