偉人

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田中吉政

たなか よしまさ(1548-1609)
登場回数:4作

田中 吉政(たなか よしまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。筑後国主。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。
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渡辺清

わたなべ きよし(1835-1904)
登場回数:1作

渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、江戸時代末期の大村藩士、明治時代の官僚、政治家。元は諱を武勝、通称を清左衛門と名乗った。号は東山。 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事を歴任した。また華族に列し、男爵に叙された。
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土岐頼兼

とき よりかね(?-1324)
登場回数:1作

土岐 頼兼(とき よりかね)は、鎌倉時代末期の武将。土岐頼貞の十男。
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島井宗室

しまい そうしつ(1539-1615)
登場回数:3作

島井(嶋井) 宗室(しまい そうしつ、天文8年(1539年)- 元和元年8月24日(1615年10月16日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人、茶人。「宗叱」(読み同じ)とも表記される。名は茂勝。号は虚白軒。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれる。 「武士とキリシタンには絶対になるな」などの遺訓一七ヵ条が有名。
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島津久宝

しまづ ひさたか(1801-1873)
登場回数:2作

島津 久宝(しまづ ひさたか、久寶とも、享和元年正月24日(1801年3月8日)- 明治6年(1873年)1月14日)は、幕末の薩摩藩家老。別称・直次郎、愛次郎、藤次郎(藤十郎とも)式部、主計。号して豊山。
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島田正辰

しまだ まさたつ(?-1862)
登場回数:1作

島田 正辰(しまだ まさたつ、? - 文久2年7月20日(1862年8月15日))は、江戸時代末期の地下官人、九条家青侍。位階・官職は従六位下左近衛権大尉。官職から島田 左近(しまだ さこん)の通称で知られる。諱は他に龍章などを名乗った。安政年間に、同家諸大夫の宇郷重国とともに強権的な手法を用いて尊皇攘夷派を一掃したほか、14代将軍継嗣問題に介入したことでも知られ、京で絶大な政治力を有した。 なお、同じ九条家の諸大夫である嶋田正辰(陸奥守、橘氏)と同名であり、誤伝を避けるため通称の左近で呼称を統一される場合が多い。
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湯目景康

ゆのめ かげやす(1564-1638)
登場回数:1作

湯目 景康(ゆのめ かげやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。同名の孫(津田玄蕃景康)と区別するため津田豊前景康と表記される。
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藤原景経

ふじわら の かげつね(?-1185)
登場回数:1作

藤原 景経(ふじわら の かげつね、生年不詳 - 文治元年(1185年)?)は、平安時代末期の武将。平家譜第の家人である藤原景家の子。飛騨三郎左衛門。伊藤景経とも。 父の景家は平家の棟梁・平宗盛の乳母父であり、景経は乳母子として宗盛に仕えた。『平家物語』では壇ノ浦の戦いで入水しきれずにいた宗盛を庇って討ち死にしたとされるが、『吾妻鏡』で壇ノ浦で捕虜となった人物に景経の誤記と見られる「前左衛門尉藤原経景」の名があり、宗盛と共に鎌倉へ護送されたと見られる。その後の処分は不明。
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藤原師高

ふじわら の もろたか(?-1177)
登場回数:2作

藤原 師高(ふじわら の もろたか)は、平安時代後期の貴族。後白河法皇の権臣であった西光(俗名:藤原師光)の子。官位は五位・検非違使尉。
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藤原説貞

ふじわら の ときさだ(?-?)
登場回数:1作

藤原 説貞(ふじわら の ときさだ)は、平安時代後期の武士。官職は陸奥権守。
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