偉人

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黒澤止幾

くろさわ とき(1807-1890)
登場回数:1作

黒沢 とき(くろさわ とき、文化3年12月21日(1807年1月29日) - 明治23年(1890年)5月8日)は、日本初の女性小学校教師。常陸国茨城郡錫高野村(桂村を経て現・茨城県東茨城郡城里町)出身。名は止幾・登幾・止幾子(ときこ)とも。号は李恭。
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根岸友山

ねぎし ゆうざん(1810-1890)
登場回数:1作

根岸 友山(ねぎし ゆうざん、文化6年11月27日(1810年1月2日) - 明治23年(1890年)12月3日)は、壬生浪士組隊士、庄内藩新徴組取締役。本名、伴七。号は友山。諱は信輔。北辰一刀流振武所。
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佐々木盛綱

ささき もりつな(1151-?)
登場回数:4作

佐々木 盛綱(ささき もりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地 盛綱とも呼ばれ加地氏の祖である。 近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。初名は父の1字を取って秀綱(ひでつな)といった。源頼朝に伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いでは、島に篭もる平行盛を破った。 能の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領した。
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佐藤基治

さとう もとはる(1113-1189)
登場回数:2作

佐藤 基治(さとう もとはる)は、奥州藤原氏の家臣で、奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した武将。源義経の従者佐藤継信・忠信の父である。
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左右田孫兵衛

そうだ まごべえ(1636-1723)
登場回数:2作

左右田 孫兵衛(そうだ まごべえ、寛永13年(1636年) - 享保8年2月29日(1723年4月4日))は、江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。名は重次(しげつぎ)という。 米沢藩4代藩主上杉綱憲の次男・吉良義周が吉良家を相続した際に義周付きの家老となる。100石取り。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には、子と見られる左右田源八郎(中小姓・7両)が討ち死にしたが、孫兵衛は生き残ったため、同じく家老の斎藤宮内とともに長屋の壁を切り破って逃げたという不名誉な噂がたった。なお、左右田は討ち入り後の12月16日に吉良義央の首級が納められた泉岳寺から吉良の首を返還され受け取っている。同僚家老斎藤宮内連名の文書(覚=受領書)が泉岳寺に所蔵されている。 吉良家が断絶となった後も山吉盛侍とともに義周に従い、配流先の諏訪藩高島城へ供した。義周が死去した後は三河国吉良へ戻り余生を過ごした。 享保8年(1723年)2月29日に死去。享年88。墓は吉良吉田の正覚寺にある。法名釈順知。
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斎藤朝信

さいとう とものぶ(1527-1592)
登場回数:2作

斎藤 朝信(さいとう とものぶ、大永7年(1527年)? - 文禄元年(1592年)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後上杉氏の家臣。赤田城主。斎藤定信の子。子に乗松丸(斎藤景信)。下野守を称す。武勇の誉れ高く、「越後の鍾馗」と呼ばれたという。
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細川勝元

ほそかわ かつもと(1430-1473)
登場回数:1作

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。細川京兆家11代当主。応仁の乱の東軍総大将として知られている。
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坂本乙女

さかもと おとめ(1832-1879)
登場回数:2作

坂本 乙女(さかもと おとめ、1832年2月2日(天保3年1月1日)- 1879年(明治12年)8月31日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての女性。土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。弟に坂本龍馬がいる。 本来の名は留(とめ)で、「乙女(をとめ)」は「お留」への当て字である(ただし旧仮名は異なる)。「乙女」を「とめ」と読むこともある。
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三の丸殿

さんのまるどの(?-1603)
登場回数:2作

三の丸殿(さんのまるどの)は、安土桃山時代の女性。織田信長の娘。太閤・豊臣秀吉の側室。前関白・二条昭実の継室。信長の養女で同じく二条昭実に嫁いでその側室となった「さこの方」は別人とされるが、法名が一致している等詳細は不明な点が多い。
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三好吉房

みよし よしふさ(1534-1612)
登場回数:3作

三好 吉房(みよし よしふさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣家の一門衆。尾張犬山城主、後に清洲城主。 通称の弥助は百姓名であったともいうが、立身後は受領名の武蔵守を通称として用いた。入道して一路(一路常閑)と号し、後に法印に叙任されたので、三位法印一路とも称した。また別の法名で日海も伝わる。妻は瑞龍院妙慧日秀で、豊臣秀次・秀勝・秀保らの実父である。
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