偉人

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直江兼続

なおえ かねつぐ(1560-1620)
登場回数:7作
別名:樋口与六/樋口兼続/直江重光

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。
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鶴見内蔵助

つるみ くらのすけ(?-1694)
登場回数:3作

鶴見内蔵助(つるみ くらのすけ、生年不詳‐元禄7年(1694年))は、江戸時代中期の武士。備中松山藩水谷家の国家老。 鶴見氏は常陸下館藩主時代から水谷家に仕えた家柄。水谷家のもとで代々鶴見家の当主は1000石の知行と内蔵助の通称を受け継いだ。元禄6年(1693年)に水谷家が無嗣で改易となると、備中松山城を収城使の播磨赤穂藩主浅野長矩に城明け渡しを行うこととなった。この城明け渡しに際に赤穂藩国家老大石良雄(内蔵助)が単身で備中松山城内に入り、鶴見内蔵助と話し合って開城へこぎつけたという(両内蔵助の対談)。 元禄7年(1694年)に死去。鶴見家はその後、備中国川上郡布賀村を所領とする旗本となった水谷家に召しだされ、布賀村代官を代々つとめて明治時代を迎えた。昭和期の評論家・政治家である鶴見祐輔はその末裔である。
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天野康景

あまの やすかげ(1537-1613)
登場回数:2作

天野 康景(あまの やすかげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。駿河国興国寺藩主。
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田中謙助

たなか けんすけ(1828-1862)
登場回数:2作

田中 謙助(たなか けんすけ)は、幕末の薩摩藩士。父は池田氏。諱は盛明。
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渡辺通

わたなべ かよう(?-1543)
登場回数:1作

渡辺 通(わたなべ かよう/とおる)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。
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土岐頼純

とき よりずみ(1524-1547)
登場回数:1作

土岐 頼純(とき よりずみ)は、戦国時代の大名で美濃国の守護大名である。土岐頼武の嫡男で、母は朝倉貞景の三女。妻は斎藤道三の娘。
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島清興

しま きよおき(1540-1600)
登場回数:7作
別名:島左近/嶋左近

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、正しくは清興である。なお、本項目では特に断りが無い限り「左近」と記す。 また名字に関して、本人の自署や『多聞院日記』などの同時代史料では、「島」でなく「嶋」の字が用いられている。 三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)。 娘の珠は柳生利厳の継室となっており、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる。
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島津継豊

しまづ つぐとよ(1702-1760)
登場回数:1作

島津 継豊(しまづ つぐとよ)は、江戸時代の大名。島津氏22代当主。薩摩藩第5代藩主。
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島田便右衛門

しまだ べんえもん(?-?)
登場回数:1作

島田 便右衛門(しまだ べんえもん、生没年不詳)は、江戸時代末期(幕末)の土佐国の豪農。 土佐国安芸郡井ノ口村の庄屋を務めていた。もっとも安芸川の水利を独占や年貢米の扱いに不正があったと言われ、自身が井ノ口村の出身ではなかった事もあって農民と度々対立していたという。またまた村の有力者である岩崎家と結んで利権を保っており、岩崎家の内部問題にも介入する事があった。 嘉永6年(1853年)農民との水争いが起こり、安政2年(1855年)岩崎弥次郎の仲介を得てようやく解決にこぎつけた。しかしその祝宴の場で、酒癖の悪かった弥次郎と口論になってその場で喧嘩騒ぎにまで発展し、便右衛門は周囲の者と共に弥次郎を滅多打ちにして重傷を負わせた。この件によって一時期は弥次郎の妻・美和が奉行所に訴え出る騒ぎにまで発展したが、岩崎家分家にあたる岩崎鐡吾・馬之助らの支持を得、また奉行所も私闘には介入しない旨の告知をしたためにこの騒動は沈着する事になった。
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筒井順慶

つつい じゅんけい(1549-1584)
登場回数:5作
別名:筒井藤勝/筒井藤政

筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、はじめ藤勝(ふじかつ)、のちに藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和国郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。
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