偉人

偉人

寺坂信行

てらさか のぶゆき(1665-1747)
登場回数:4作
別名:寺坂吉右衛門

寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。
偉人

宍戸璣

ししど たまき(1829-1901)
登場回数:1作

宍戸 璣(ししど たまき、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 明治34年(1901年)10月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家・官僚。子爵)。前名の山県半蔵でも知られる。
偉人

謝名利山

じゃな りざん(1549-1611)
登場回数:1作

謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。三司官として対日本外交で強硬姿勢をとり、1609年の琉球侵攻の後、処刑される。 謝名親方(じゃなうぇーかた)の呼び方で一般に知られる。唐名は鄭迵(ていどう)。
スポンサーリンク
偉人

酒井忠次

さかい ただつぐ(1527-1596)
登場回数:12作

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。
偉人

拾阿弥

じゅうあみ(?-1559)
登場回数:2作

拾阿弥・十阿弥(じゅうあみ、生年不詳 - 永禄2年(1559年))は、戦国時代の茶坊主。尾張国守護代織田氏に仕えた同朋衆。 「捨阿弥」は誤記。
偉人

春香院

しゅんこういん(1580-1641)
登場回数:2作
別名:おちよ/長姫

春香院(しゅんこういん、天正8年5月7日(1580年6月18日) - 寛永18年11月20日(1641年12月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利家の七女、生母はまつ(芳春院)。名はおちよ。前田 千世(まえだ ちよ)。千世姫、千代姫、長姫とも。愛称はおちよ、かもじ:村井妻、しゅんもじ:春香院。
偉人

勝子

かつこ(?-?)
登場回数:1作

勝子(かつこ、生没年不詳)は、戦国時代の、織田信行の侍女。 織田信行の寵臣である津田八弥と婚約していたが、佐久間七郎左衛門が津田を暗殺して斎藤道三のもとに奔ると復讐を志し、名を偽って道三の孫の斎藤龍興の夫人の侍女となって機を窺った。 城中で騎射が催されたとき、射手の中に七郎左衛門がいることを知り、匕首を振るってこれを刺し殺した。 城中に禁錮されたが、龍興の夫人に救われて城中を逃れ、縁によって徳川家康の臣である大須賀康高のもとに身を寄せた。 家康はこれを聞いて勝子を城中に置いた。 七郎左衛門の兄が織田信長に懇願して勝子を得ようとしたが家康は応じず、自身のために信長と家康との間に争いが生じようとしたのを憂いた勝子は自刃した。 家康はその義烈を賞して手厚く葬ったという。
偉人

小笠原長時

おがさわら ながとき(1514-1583)
登場回数:2作
別名:豊松丸

小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。信濃四大将のひとり。
偉人

小山田茂誠

おやまだ しげまさ(?-1637)
登場回数:1作

小山田 茂誠(おやまだ しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。武田氏麾下の国衆小山田氏。後北条氏、真田氏の家臣。 幕末の文久年間に成立したとされる小山田了三家伝「郡内小山田家長老大長老の事」によれば、郡内領主小山田氏の一門には複数の分家が存在し、茂誠はこのうち記録から確認される、代々仮名「平三」、官途名「弾正」を称した小山田弾正家の出自であるという。
偉人

小西行長

こにし ゆきなが(1558-1600)
登場回数:11作

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。藤原北家秀郷流丹波内藤氏で、管領細川京兆家に仕えた丹波国守護代内藤元貞の玄孫。祖父・行正の代から小西氏を称した。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。
スポンサーリンク