偉人

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織田信行

おだ のぶゆき(1536-1558)
登場回数:9作
別名:織田達成/織田信成

織田 信行(おだ のぶゆき)は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ)、達成(みちなり)、信成(のぶなり)である。父は織田弾正忠家の織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟である。 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。 信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。また、白山を信仰していたとされ、鷹狩の名手であったという。
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信西

しんぜい(1106-1160)
登場回数:2作

信西(しんぜい、嘉承元年〈1106年〉 - 平治元年12月13日〈1160年1月23日〉)は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな の みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。
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新免無二

しんめん むに(?-?)
登場回数:1作
別名:宮本無二斎

新免 無二(しんめん むに、生没年不詳 新免無二斎とも)は、戦国時代の剣豪。宮本武蔵の実父(ないしは二天記等の記述により養父ともされる)。その生涯に関しては諸説あるが、村上源氏流と自称した赤松氏の支流新免氏の一族という。
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深谷盛房

ふかや もりふさ(1767-1854)
登場回数:1作

深谷 盛房(ふかや もりふさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。上杉盛房とも呼ばれる。
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真木保臣

まき やすおみ(1813-1864)
登場回数:8作

真木 保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。父は真木旋臣、母は中村柳子。神官として従五位下・和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。雅号は紫灘(したん)。贈正四位。
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進藤俊式

しんどう としもと(1647-1730)
登場回数:4作
別名:進藤源四郎

進藤 俊式 (しんどう としもと、正保4年(1647年) - 享保15年(1730年)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。足軽頭400石。通称は源四郎(げんしろう)。 進藤家は、公家近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた。父は赤穂藩士の進藤与四郎俊順。母は大石良勝(良雄の曽祖父)の娘ヨウであり、俊式は大石良雄の母方の大叔父にあたる。また俊式も大石良欽(良雄の祖父)の娘お通を妻とし、お通の死後は、良雄の推挙で石束毎公(りくの父)の甥・田村瀬兵衛の娘を後妻とした。のちに良雄の次女るりを養女にしており、大石家とは大変な重縁をもっていた。 元禄14年(1701年)の赤穂藩改易時には、足軽頭の地位にあった。赤穂城での論争では一貫して大石良雄派として行動し、大野知房らと対立。その後、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後、山科へ移ったが、これは山科が関白近衛基熙領であって、親戚の進藤長之(近衛家家司)が管理していた土地だったからと思われる。藩政残務処理を終えたあとの大石良雄も山科へ入っている。 大石とともに浅野家お家再興を目指したが、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広の広島藩お預けが決まり、お家再興が絶望的になる。俊式はこの頃からやる気を失ったとみえ、7月28日の円山会議にも出席していない。また大石は仇討ち一本の方針に切り替えたが、この際、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を行うと、俊式は閏8月8日に脱盟の書状を提出した。また大石の叔父にあたる小山良師もこの時に脱盟しており、大石は2人に再考するよう浅野家侍医の寺井玄渓を通じて一度慰留を行なっているが、これに対しても俊式は閏8月22日付けの断りの書状を送って再度脱盟の意思を伝えている。この脱盟の背景には、浅野本家に仕えた叔父の進藤俊重が仇討ち参加を自重するように説得していたためとされる。 俊式は、その後も山科で暮らし、半髪にして可言と号したが、享保15年(1730年)に死去。享年84。泉湧寺来迎院に葬られた。法名は爰疑院帰山宗休居士という。
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諏訪頼隆

すわ よりたか(?-1530)
登場回数:1作

諏訪 頼隆(すわよりたか) 諏訪刑部大輔頼隆 : 戦国時代の人物。以下本項にて詳述する。 諏訪大隅守頼隆 : 江戸時代の人物。諏訪頼基(よりもと、諏訪忠晴の実子)の養父。江戸時代においては、諏訪氏は諏訪頼忠の子の代から大名家(頼水系)と大祝家(頼広(よりひろ)系)の二系統が存在した。頼隆は大祝家・頼広の孫にあたり、元禄年間に諏訪大社の大祝であった。諏訪 頼隆(すわ よりたか、明応8年(1499年)? - 享禄3年4月18日(1530年5月15日))は、戦国時代の人物・諏訪氏当主・諏訪大社大祝。父は諏訪頼満。弟に諏訪満隣、諏訪満隆など、子に諏訪頼俊、諏訪頼重、諏訪頼高がいる。刑部大輔。 父に譲られて諏訪大社大祝(おおほうり)となったが、嫡男の頼重が誕生すると、永正17年(1520年)に大祝を頼重に譲っている。享禄元年(1528年)には諏訪郡と接する甲斐国守護の武田信虎が諏訪へ侵攻し、神戸・堺川合戦(長野県諏訪郡富士見町)においてこれを撃退する。享禄3年(1530年)に死去した。諏訪大社の神事をめぐる神官同士の対立を仲裁した際に先例を曲げたため神罰が下ったといわれているが定かではない。
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崇源院

すうげんいん(1573-1626)
登場回数:13作
別名:江/小督/江与

崇源院(すうげんいん/そうげんいん、天正元年〈1573年〉8月 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。 最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は、姉茶々の猶子となる。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。
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杉野次房

すぎの つぎふさ(1676-1703)
登場回数:3作
別名:杉野十平次

杉野 次房(すぎの つぎふさ、延宝4年(1676年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は十平次(じゅうへいじ)。
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星亨

ほし とおる(1850-1901)
登場回数:1作

星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日(1850年5月19日) - 明治34年(1901年)6月21日)は、日本の政治家、弁護士。元衆議院議員。
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