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九条兼孝

くじょう かねたか(1553-1636)
登場回数:1作

九条 兼孝(くじょう かねたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白。九条家第17代目当主。同家第15代当主の九条尚経は曽祖父にあたる。後月輪と号した。
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櫛橋政伊

くしはし まさこれ(?-1578)
登場回数:1作

櫛橋 政伊(くしはし まさこれ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。異説もあるが、同城の最後の城主である。
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慶月院

けいげついん(?-1671)
登場回数:1作

慶月院(けいげついん)は、寛文11年3月27日(1671年5月6日)、大老酒井忠清邸で刃傷沙汰(寛文事件)を起こした、世に言う伊達騒動の主謀者の一人である原田宗輔の母。名は津多(つた)。 慶月院の母は香の前(お種殿)である。元は豊臣秀吉の愛妾で、諸説あるが秀吉から伊達政宗に下賜され、慶長3年(1598年)に慶月院(津多)、慶長5年(1600年)に亘理宗根(又治郎)を産み、のちに茂庭綱元の側室となった。慶月院は柴田郡船岡城主の原田宗資に嫁いで、宗輔と娘2人をもうけた。 寛文事件の後、原田家の男子は養子に出された者や乳幼児全て切腹、斬首の死罪で一家断絶となった。女子もお預けの身となる厳しい処罰が下される。慶月院も亘理伊達家の伊達基実に預けられ、息子が犯したことで名門原田家が断絶したことを嘆き、舌を噛み切って自害しようとしたが、老齢から噛み切れず、絶食して五十数日後、同年7月に亘理伊達家の屋敷にて失意のうちに享年74で亡くなった。 墓は亘理伊達家の菩提寺である大雄寺住職の隠居寺陽林庵の一隅に、墓碑の代わりに大きな石が置かれているだけである。現在の墓の場所は宮城県亘理郡亘理町長瀞(ながとろ)字夜討坂にある。
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月照

げっしょう(1813-1858)
登場回数:3作

月照(げっしょう、文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。
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原長頼

はら ながより(?-1600)
登場回数:1作

原 長頼(はら ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
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源義経

みなもと の よしつね(1159-1189)
登場回数:7作

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。
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源仲綱

みなもと の なかつな(1126-1180)
登場回数:3作

源 仲綱(みなもと の なかつな)は、平安時代末期の武将・歌人。源頼政の嫡男。母は源斉頼女。官位は正五位下、隠岐守、伊豆守。
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玄広恵探

げんこう えたん(1517-1536)
登場回数:1作

玄広 恵探(げんこう えたん)は、戦国時代の武将。今川義元の庶兄。今川 良真(いまがわ ながさね)を名乗ったとする説もある。
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虎岩玄隆

こげん げんりゅう(1560-1595)
登場回数:1作

虎岩玄隆(こげんげんりゅう、 永禄3年(1560年) -文禄4年7月15日(1595年8月20日))は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧。字は虎岩、諱は玄隆。僧階が「西堂」であって、隆西堂(または玄隆西堂)とは略称。東福寺山内法雲寺(後の南昌院で廃寺)の開基であり、南昌院隆西堂や南昌院虎岩玄隆とも言う。
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後藤基清

ごとう もときよ(?-1221)
登場回数:1作

後藤 基清(ごとう もときよ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。讃岐国・播磨国守護。
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