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向井忠勝

むかい ただかつ(1582-1641)
登場回数:1作

向井 忠勝(むかい ただかつ、天正10年5月15日(1582年6月5日) - 寛永18年10月14日(1641年11月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。向井正綱の子。官位は左近衛将監。妻は長谷川長綱の娘で、後妻と合わせて11男7女に恵まれた。
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絵島

えしま(1681-1741)
登場回数:1作

江島(えしま、えじま、えのしま)
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香坂宗重

こうさか むねしげ(?-1561)
登場回数:1作

香坂 宗重(こうさか むねしげ、生年不詳 - 永禄4年5月(1561年))は、戦国時代の武将、信濃国牧城主。香坂宗利の子。通称は筑前守。
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高橋泥舟

たかはし でいしゅう(1835-1903)
登場回数:1作

高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日(1835年3月15日) - 明治36年(1903年)2月13日)は、日本の武士(幕臣)。
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高倉天皇

たかくらてんのう(1161-1181)
登場回数:3作
別名:憲仁/高倉上皇

高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日〈応保元年9月3日〉- 1181年1月30日〈治承5年1月14日〉)は、日本の第80代天皇(在位: 1168年4月9日〈仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉)。諱は憲仁(のりひと)。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇・後鳥羽天皇らの父。
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黒河内兼規

くろこうち かねのり(1803-1868)
登場回数:1作
別名:黒河内伝五郎

黒河内 兼規(くろこうち かねのり、享和3年(1803年) - 慶応4年8月23日(1868年10月8日))は、幕末の武士(会津藩士)。 旧姓は羽入、諱は初めは義信、のちに兼規。通称は伝五郎で、黒河内伝五郎の名前でも知られる。
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黒澤明

くろさわ あきら(1910-1998)
登場回数:1作

黒澤 明(くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成10年〉9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。 青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。
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根来上総

ねごろ かずさ(1816-1892)
登場回数:1作

根来 上総(ねごろ かずさ、文化13年7月2日(1816年7月26日) - 明治25年(1892年)2月7日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の家老。通称は長五郎・帯刀・勢之祐。「上総」もまた通称であり、本名は親祐(ちかすけ)。子の根来親保(ちかやす)と二代に亘って、藩主毛利慶親より偏諱(「親」の字)を賜っている。法号は甘谷。
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佐々木男也

ささき おなり(1836-1893)
登場回数:2作

佐々木 男也(ささき おなり、天保7年5月26日(1836年7月9日) - 明治26年(1893年)11月25日)は、幕末の長州藩士、明治期の実業家。 実名(諱)は一貫。別名に仙之助。また宇多朔太郎・牧山騎之助と変名した。
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佐藤三二

さとう さんじ(1846-1877)
登場回数:1作

佐藤 三二(さとう さんじ、弘化3年(1846年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末の薩摩藩士・明治時代の大日本帝国陸軍軍人。諱は信継。鹿児島の郷土作家、佐藤剛(1914年 - 2002年)の祖父。 西南戦争に西郷軍として参加し、小倉処平や石井竹之助とともに野村忍介が隊長を勤める西郷軍奇兵隊の総軍監となり、和田越の戦いでは小倉処平とともに西郷軍奇兵隊のうち5部隊を指揮して熊田に陣取った。城山の戦いでは野村忍介や河野四郎左衛門らと大小荷駄隊で合流してから政府軍に投降する予定であったが、戦闘中に弾丸があたって戦死する。享年32。 墓は、南洲墓地のほかに草牟田墓地にもある。子孫の家に伝わっていた遺髪は、西郷南洲顕彰館で展示されている。
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