偉人

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湘南宗化

しょうなん そうけ(?-1637)
登場回数:1作

湘南 宗化(しょうなん そうけ、1586年頃 - 寛永14年(1637年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。
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上杉定実

うえすぎ さだざね(?-1550)
登場回数:2作

上杉 定実(うえすぎ さだざね)は、戦国時代の守護大名。越後国守護。越後上杉家8代(最後の)当主。上杉房能の従弟で、養子とされるが確証はない。上杉謙信(初名:長尾景虎)は義理の甥にあたる。
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常盤御前

ときわごぜん(1138-?)
登場回数:6作

常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成と一女をもうける。字は常葉とも。
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織田信時

おだ のぶとき(?-1556)
登場回数:1作

織田 信時(おだ のぶとき)は、戦国時代の武将。信長の弟と伝えられるが、一説には異母兄とも言われる。また織田秀俊と同一人物とも考えられている。
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新井白石

あらい はくせき(1657-1725)
登場回数:3作

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。
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新門辰五郎

しんもん たつごろう(1800-1875)
登場回数:3作

新門 辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、侠客。 実父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日という説もある)。「新門」は「しんもん」と読まれるが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説がある。
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深徳院

しんとくいん(1688-1713)
登場回数:1作
別名:須磨

深徳院(しんとくいん、元禄元年(1688年) - 正徳3年10月24日(1713年12月11日))は、紀州藩第5代藩主徳川吉宗(後の江戸幕府第8代将軍)の側室で、第9代将軍徳川家重の生母。 父は紀州藩士の大久保忠直。母は同じく紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘。俗名は須磨(須摩)。
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真野頼包

まの よりかね(?-?)
登場回数:1作

真野 頼包(まの よりかね)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。豊臣家の譜代家臣で、大坂七手組頭の1人。
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進藤俊重

しんどう とししげ(1639-1722)
登場回数:1作

進藤俊重 (しんどう とししげ、寛永16年(1639年) - 享保7年(1722年)は、江戸時代前期の武士。安芸国広島藩浅野氏の家臣。幼名は弥助(やすけ)、通称は八郎右衛門(はちろうえもん)。 広島藩士の進藤八郎右衛門就信の子。兄(弟ととも)に赤穂藩浅野氏家臣・進藤与四郎俊順がいる。俊重は「芸州藩侍帳」によれば山奉行兼足軽頭300石とある。 元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件に伴い、元禄15年(1702年)7月18日に長矩の弟浅野長広にお預かりが決まり、長広は7月29日に江戸を発った。この際に俊重は、広島藩船奉行植木小左衛門の代理で大阪へ赴き、長広一行を待って大阪から広島まで船で輸送した。俊重が代理となったのは広島藩家老の沖権太夫忠祐から、山科にいる俊重の親族の大石良雄を吉良家へ仇討ちさせないように鎮撫する任を内々に受けていたためであり、実際に京都で大石と面会している。また甥にあたる進藤俊式はじめ、奥野定良・小山良師・河村伝兵衛らの説得にもあたり、この後の神文返しの際に彼らを脱盟させて一党の切り崩しを狙った。 隠居後は落髪して終閑と号した。享保7年(1722年)死去。享年82。法名は映月院雲算終閑。
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須田信頼

すだ のぶより(?-?)
登場回数:1作

須田 信頼(すだ のぶより、生没年不詳)は、戦国時代の武将。信濃国高井郡須田郷の国衆。須田城主。諱の「信」の字は武田氏の偏諱と思われる。
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