偉人

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大久保忠朝

おおくぼ ただとも(1632-1712)
登場回数:3作

大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名・老中。肥前国唐津藩2代藩主、下総国佐倉藩主、相模小田原藩主。官位は従四位下・加賀守、侍従、木工頭。小田原藩大久保家3代。
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大江広元

おおえ の ひろもと(1148-1225)
登場回数:4作

大江 広元(おおえ の ひろもと、旧字体:大江廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府と公文所(後の政所)の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。
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大石るり

おおいし るり(1699-1751)
登場回数:2作

大石 るり(おおいし るり、元禄12年(1699年) - 寛延4年6月29日(1751年7月21日))は、江戸時代中期の女性。広島藩番頭浅野直道の妻。 赤穂藩浅野氏筆頭家老の大石良雄とその妻りく(香林院)の次女として生まれる。元禄14年(1701年)、3歳の頃に父良雄の叔母の夫にあたる進藤俊式の養女となったが、同年赤穂藩改易の騒ぎの中で大石家に戻り、5月には生母りくや兄の大石良金・吉之進、姉くうとともにりくの実家但馬国豊岡藩に移った。その後、7月に良雄が山科に住居を落ち着けると、りくも子らを連れて山科へ移った。その後、吉良家討ち入り計画が進む中で連座を避けるために良雄は、討ち入りへの参加を望んだ長男良金を除いて妻りくや子らを絶縁し、元禄15年(1702年)4月15日にりくとともに但馬豊岡へ戻ることとなった。 その後、良雄や良金は吉良義央を討ち、お預かりの大名屋敷で切腹(赤穂事件)、この事件を契機に父良雄は英雄化し、正徳3年(1713年)9月に弟大石大三郎の広島藩浅野家への仕官が決まると、大三郎やりくと一緒に広島へ移住した。正徳4年(1714年)には藩主浅野吉長の命令により浅野氏一族の浅野直道(知行1000石)と結婚した。 寛延4年(1751年)6月29日に広島で死去。享年53。広島の禅林寺に葬られた。法名は正聚院定誉寿真大姉。
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大谷吉治

おおたに よしはる(?-1615)
登場回数:1作

大谷 吉治(おおたに よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大谷吉継の子(一説には弟)。諱は吉胤(よしたね)や吉勝(よしかつ)などもある。官位は大学助。子に吉之。真田信繁は義理の兄にあたる。
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大姫

おおひめ(1178-1197)
登場回数:4作

大姫(おおひめ、治承2年(1178年) - 建久8年7月14日(1197年8月28日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女で母は北条政子。大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は一幡とする説があるが不明。 6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世した。
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鷹司兼熙

たかつかさ かねひろ(1660-1725)
登場回数:2作

鷹司 兼煕(たかつかさ かねひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。関白・鷹司房輔の長男。官位は従一位・関白。鷹司家17代当主。主に霊元天皇と東山天皇の在位中の朝廷政治の中枢として活躍した。
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沢彦

たくげんそうおん(?-1587)
登場回数:1作

沢彦宗恩(たくげんそうおん、生年不詳 - 天正15年10月2日(1587年11月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。後に大住持。
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丹波時長

たんば の ときなが(?-?)
登場回数:1作

丹波 時長(たんば の ときなが、生没年不詳)は、平安時代から鎌倉時代前期にかけての医師。典薬頭・丹波長基の子。官位は従四位上・典薬頭。
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池内蔵太

いけ くらた(1841-1866)
登場回数:3作

池 内蔵太(いけ くらた、天保12年(1841年) - 慶応2年5月2日(1866年6月14日))は、幕末期の土佐藩の郷士。諱は定勝。別名に細川左馬之助。細井徳太郎。
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中の丸

なかのまる(?-1625)
登場回数:1作

中の丸(なかのまる、? - 寛永2年9月25日(1625年10月26日))は、戦国時代から江戸時代初期の女性。安芸国の戦国大名・毛利元就の後妻、継室とも側室ともされる。安芸国佐西郡石内の国人領主・小幡氏の一族小幡元重の姉とされ、小幡氏、東の大方とも称される。
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